2014/11/26

カントからの励まし

哲学者カントが書いた短い論文「啓蒙とは何か」には、啓蒙の定義と個人・公衆への啓蒙のすすめ、理性(考える力)をいかに使い、社会を構築していくか、が書かれている。カントの生きた時代は、啓蒙思想が世の中に普及してきた時代である。中世以来ヨーロッパで勢力を伸ばしていたキリスト教は、教会の分裂や腐敗、さらにはルネッサンスの波を受けて、権威が薄れてきていた。そのような中、時代を切り開く道具として、人間の理性は注目を浴びた。そして理性を用いることで人間はよりよい生活、幸福を得ることができるという思想が広く信じられた。カントは人間の理性を信じた。そして理性は他人によって脅かされてはならず、理性によって考えたことが公の場で議論されるのをよしとした。とても印象に残った冒頭部分を引用し、「考えること」について考えてみる。

――啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜け出ることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。(「永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編」中山元訳、光文社古典新訳文庫 http://www.amazon.co.jp/dp/4334751083

そもそも考えることというのは、人間に与えられた特権のようなものである。その昔パスカルが「人間は考える葦である」と言ったように、人間は考えるからこそ他の生物よりも強く、優位に立ち、自由であることができるのだ。しかし多くの人間はその特権をフル活用しない。大多数の人は特権を活用している少数の人間の後を追うのである。その理由をカントは、人間の怠慢と臆病としている。怠慢とはつまり、考えるより考えないほうが気楽だから考えない、ということだ。臆病とは、考えることによって躓いた人、失敗した人を見て、保身のために考えないという選択をすることだ。カントにとって、考えることをしない人たちは理性を持ち合わせていない人ではない。「理性を使わない人」である。理性はどんな人間にも与えられていて、使う/使わないはその人の理性によって決定される。そういう意味で考えないことへの責任は、理由は何であれ他の誰にでもなく自己に帰する。そしてカントは、勇気を持って考え始めよと訴える。

この論文は、現代人が読んでも全く古さを感じさせない。理性を使わない人は、現代においても決して少なくないと思う。昔よりも多くの情報が存在し、手に入れやすくなったため、考えるための素材は増えた。しかし考えることではなく、調べることや手を抜くことにエネルギーを使いがちだ。ではなぜ考えないのか。カントはその理由として論文の中で怠惰と臆病を挙げている。これらは現代でもそのまま当てはまると思う。考えることは多くの人にとって面倒なことである。考え続ければ答えが出ると分かっているものであれば、考えようという気も起こるかもしれないが、考え続けても答えが出るかどうかわからないものを考えるのには、相当根気がいる。いずれにしても時間、集中力、体力、知力、忍耐力の力を使うため、多くのエネルギーを消費して疲れる。また、考えたがゆえに非難されたり、面倒なことに巻き込まれたり、ということはよく起こる。友人が言ったことに納得していれば喧嘩になることもなかった、とか、上司にたてつかなければ左遷されることもなかった、とかはよく聞く話だ。さらに必要性も考えない理由の1つに挙げられる。考えることは疲れるし、考えて失敗しても困る。これらのマイナス面を念頭においたうえでも、考えることは必要なのか。現代は、それほど考えなくても生きることに支障はないし、それなりの満足を得ることができる時代だ。物や情報はすぐ手に入る。選り好みしなければ仕事もある程度は見つかり、お金を稼ぐことができる。戦争のような命を脅かすようなものもない。となると、特に意識して何かを考える必要はないのかもしれない。

しかし啓蒙は、つまり自身の考える力を使い始めることは、希望も含んでいる。考えても何も変わらない、望ましい状態になるとは限らない、といった反論もあろうが、結局のところ、考えることなしでは何も始まらないのである。考えることは、待ち受ける未来を自ら作っていくきっかけとなる。いわば、未来の社会や自分を構築するための出発点である。そして、ここを自覚することが最も重要だと思うのだが、考える力は既に与えられているのである。考える力がない、というのは正しい認識ではない。必要なのは、未成年状態から抜け出すという勇気を伴った決意と、希望を信じ続けることである。

2014/11/20

スター・ウォーズ鑑賞録

先週、映画「スター・ウォーズ」の全エピソードをイッキ見した。SFものはどうも苦手で、これまで見ずに過ごして来たのだが、スター・ウォーズ大好きの友人たちからの絶賛の声を聞いて観てみようと思った。観始めたらすっかりはまり、スター・ウォーズに対して持っていた先入観が打ち砕かれ、私もファンになった。ストーリーの中で描かれている人間たちにすっかり共感した。

スター・ウォーズは、普遍的な人間の感情や出来事を描いている。観る前は、スター・ウォーズはその名の通り、宇宙で起きる戦争の話かと思っていた。確かに戦いのシーンはたくさんあるが、それよりも人間ドラマ的な要素が強い。地球上で成り立っている人間社会が宇宙でもそっくり成り立っている。国ができて権力争いが行われ、登場人物たちは主義を主張して戦い、葛藤し、恋愛し、成長していく。国・地域関係なく、規模の程度こそあれ、人間誰もが日常的に経験していることである。
さらに、スター・ウォーズを通して描かれるのは、ライトサイド(ジェダイ側)とダークサイド(ダース○○側)の戦いである。愛・助け合い・自由・思いやり・信頼・正義などと結びつくのがライトサイドで、恐怖・怒り・憎しみ・疑惑などと結びつくのがダークサイドだ。ライトサイドとダークサイドはフォースから生まれ出る。これはそっくりそのまま1人の人間の感情や思考、行動に投影することができると思う。1人の人間の中には、明るい部分と暗い部分が共存している。愛にあふれた行動をすることもあれば、怒りや嫉妬に駆られて行動することもある。相手をすっかり信頼していることもあれば、不信に満ちていることもある。気分によって、状況によって、経験によって人間の感情や思考、行動は常に変わる。明るい部分と暗い部分、どちらに多くエネルギーが振り分けられるかは流動的で、明るい部分が暗い部分をより上回ることも、暗い部分が明るい部分をより上回ることも簡単に起こりうる。ジェダイの騎士からダース・ベイダーへと転向したアナキン・スカイウォーカーは、自己内のライトサイドとダークサイドに大きく揺さぶられた人間として描かれている。

また、スター・ウォーズは希望が描かれているストーリーでもある。激しい戦いが宇宙で起こるが、最終的には愛や正義と結びついたライトサイドが勝利し、恐怖や怒りと結びついたダークサイドは滅びる。そして、たとえダークサイドに囚われても、改心してそこから抜け出し、ライトサイドを強くすることができる。人間への信頼とそこから生じる希望が描かれていると思う。


P.S. その他印象に残っていること 
・C-3POのキャラクター設定。あのすっとぼけた感、空気読んでいない感が好き。
・エピソード4~6に出てくる、人間以外の生き物たち。怖さがなく、可愛く見えてしまう。
・エピソード3でアナキンがダースベーダーの弟子なり、活動し始めたときの表情。ヘイデン・クリステンセンのきれいな顔に凄みがきいていていっそう美しくなっていた。

2014/11/07

抽象化の技術

人と話をしたり本を読んだりしていると、知的な意味で「この人すごい」と思う瞬間がある。なぜそう感じるのか、それらの人たちの発言を振り返ってみると、1つの特徴が浮かんできた。抽象化の技術に長けているのだ。

ここで言う抽象化の技術とは、現象の要点を取り出し、その要点を別の表現を用いて普遍的な次元・高次元に適応させた形で処理することである。例えば、世界情勢や社会問題に関するニュースを見たとする。まずはそのニュースの内容を把握する。そしてそのニュースの主人公たち(国や団体、個人など)の思想や置かれている環境をふまえつつ構図を読み取り、そのニュースが意味していることを解く。もう1つ例を挙げると、例えば、誰かの悩み相談を受けたとする。まずは悩みを把握し、その悩みに出てくる人物や文脈などから、悩みを生み出している根幹部分を見つけ出す。1を聞いて10を知る、そんな感じだ。

現象を抽象化すると、それまで複雑極まりなく見えていたものが理解しやすくなる。さらに、さまざまな現象から抽象化した複数の概念は、互いに比べたり、組み立てたりできる。そうすることで、問題解決がしやすくなったり、他の現象を抽象化するときに適用できたりもする。

どうしてそんなことができるのか、すごいと感じた人に以前聞いてみたことがある。その人の中では全く自然になされていることなので特別なことはないという。ただ、いつも考えている、とのこと。起こったことについて、こういう場合はどうなるのか、をいろいろなパターンでシミュレーションしているらしい。そこには前提となる知識も必要だが、知識量というよりも、その知識をつないで何かを構想するほうに重きが置かれている。

理屈は分かった。が、修練である。

2014/11/04

見る+解釈する=知覚する

人は目に入ったそのままのものを知覚していない。目に入ったものになんらかの解釈が加わったものを知覚している。解釈は脳が加えているが、無意識下で行われるため、もちろん私たちに自覚はない。このことを示すよい例が錯視現象だ。錯視とは、目で見たものが実際とは違うものとして知覚されることである。だまし絵を見ると本当は絵なのに、絵に描かれているものがあたかもそこに存在するかのように感じる。だまし絵は、人間が何かを見るときに起こる、錯視の現象を逆手にとった作品だ。

知覚にはいろいろな特性がある。例えば奥行きの知覚。人は、生理的なメカニズムと経験的なメカニズムが組み合わさった状態で奥行きを知覚する。生理的なメカニズムとは、遠くを見る時と近くを見る時で水晶体の厚さを調節したり、右目と左目のそれぞれの網膜に映る像の差異を利用することなどだ。経験的なメカニズムとは、陰影や、ものの大きさ、もの同士の重なりなどを利用して奥行きを知覚することだ。トリックアートをはじめ多くの絵画は、3次元の空間を2次元上にリアルに表現するためにこれらの技法が活用されている。

20世紀前半にドイツのゲシュタルト心理学派が研究していた、「群化」とよばれる現象も知覚の特性の1つである。群化とは、まとまりを見出し知覚することだ。まとまりが作られるには条件がある。例えば近接の要因。さら地に全く同じプレハブが複数建っているところを想像してみる。3軒は南、5軒は北、4軒は西にあるとしたとき、南、北、西でプレハブがまとまりとして想像できるはずだ。つまり、物理的に近いものがまとまりとして知覚されるということである。群化の別の例は、類同の要因だ。今度はさら地に、赤、青、黄色のいずれかの色の屋根をもつ、同じ形、大きさのプレハブが散在していると想像してみる。私たちの中に屋根の色でまとまりが作られる。似ている性質のものは、まとまりとして知覚されやすい。

また、運動しているものを見たときに現れる知覚の特性もある。例えば「運動残効」。一定方向に動いているものをしばらく見ていると、動きが止まった時にそれまでの動きとは逆の運動が現れる現象である(デモはこちら→http://youtu.be/JLJ6bMSDlNE)。パラパラマンガも「仮現運動」とよばれる知覚の特性を利用している。適当な刺激強度の静止画像を、適当な時間間隔、空間間隔で連続提示すると、動画を見ているような感覚になる。

では、こうした錯視現象が起こるのはなぜだろう。脳の仕業であることは明らかだが、詳細なメカニズムはまだ分かっていないと思われる。視覚情報処理メカニズムを簡単に説明すると、眼球の瞳孔、水晶体を通じて入った視覚情報は網膜に投射され、視神経を通じて脳の後頭葉に送られる。後頭葉には、視覚情報処理に特化した視覚野が複数存在し、そこで処理される。さらに、その視覚情報は頭頂葉や側頭葉に送られ、後続する行動へと続いていく、というプロセスをたどる。また、脳内の情報処理は電気的シグナルと化学的シグナルである。眼球に投射された像は電気的シグナルに変換されて脳に送られるが、脳内でも複数の細胞、神経物質などの脳内環境の影響を受けて最終的に意識にのぼってくる(知覚される)。「見る」から「知覚する」までのプロセスは複雑だ。
また進化という視点から見れば、現在でも普遍的に見られる錯視の現象は、生存するために益となった特性だともいえる。ニワトリやハトなどの鳥類にもヒトと同じ、そして異なる錯視現象が見られるというデータもある。となると錯視の歴史は古いとも考えられる。

最後に、高尾山トリックアート美術館(http://www.trickart.jp/about.html)で見つけたお気に入りの絵を2つ。
床に落ちていた1000円札
トイレで遭遇したりんご売りの魔女さん


錯視をもっと楽しみたい方に。
北岡明佳の錯視のページ http://www.ritsumei.ac.jp/~akitaoka/