2016/12/31

2016年を振り返る

2016年を締めくくるにはやはり今年の総まとめ。今年はどんな1年だっただろう。

そういえば今年はあわただしく幕を開けた。ヨドバシカメラの初売りでスマホを買うべく大みそかの明け方から行列に並び,いろいろあって買えなかったのを,友人が交渉してくれて買えることになり,その足で実家に帰宅と,初日からとばし気味の年明けであった。

今年のハイライトは,1月に30歳になったことだ。数年前,30代になることを嫌だ嫌だと思っていた自分がこと,ついに三十路になってしまった。ついに三十路か…と感慨深く思いつつも,年齢が重くのしかかってきた。30歳,もう若くないのにこんなこともできていないとか,労働力としての市場価値と婚活市場での価値がどんどん落ちていくことの怖さとか,そんなことを感じまくった年だった。というか,30歳になったことの喜びや嬉しさ,感謝は感じなかったのか…? ―正直感じなかった。

研究発表をしたことも今年のハイライトの1つ。このブログでも書いたが,今年の3月,初めての学会発表を経験した。そこでは私の研究の未熟さを再認識することとなったが,他にもいろいろなことがあった。例えば,発表の練習というものをこのとき初めて行った。これまで学校やそのほかの場所で何かを発表する機会はあったが,基本的にはどうにかなるだろうと精神で行き当たりばったりで臨んでいる。さすがにそれではいかんと,原稿書いて時間も測って練習したわけだが,本番でうまく発表できたかというとそうでもない。しかし少なくとも,自分で自分が何を言っているのかよくわからなくなるということはなかった。また,発表のためにパワーポイントで資料を作ったのだが,これがなかなかうまくできた!けっこう手間暇かけて作ったこともあって,パワポ資料作りおよび図解するときのコツをつかんだ。

3月は,欲と誘惑と外圧に屈した月でもあった。この選択が良かったのかはいまだによくわからない。

今年の夏はよく働いた。塾の夏期講習で通常月の2倍は稼がせていただいた。そのおかげで生活資金は潤うこととなった。しかしその一方で後悔もある。夏休みにあまり勉強しなかった。たくさん働いてはいたが,勉強する時間をとることはできた。でもついついのんびり&だらっとしてしまい,当初予定していたことはやらなかったし,研究もろくに進めなかった。夏のよき思い出は,友人たちと花火大会に出かけたこと,初夏に受けたTOEICが過去最高得点であったこと,「シンゴジラ」がすごく面白かったことである。

夏休みが終わり,10月から後期が始まり,そこからはあっという間に一日一日が過ぎていった感がある。本当に毎日が早い。印象に残っていることは,東京学芸大学の文化祭に友人と遊びに行ったこと。アクティブラーニングについて教わった。それから,11月に行った第九のコンサート。演奏も素晴らしかったが,指揮者の女性がとても魅力的であった。うまくいかないこともあった。秋から冬にかけていくつか目標を立てたが,ブログを毎日更新すること以外はすべて頓挫している。

そして大みそかの今,実家で年越しそばを食べ,Eテレでクラシックを聞きつつブログを書いている。なんというか,しなかったことばかりが目につく2016年だ…。楽しかったことやよかったこともあったはずなのに霞んでいる。ここ最近ブログを書いているときにも感じていることだが,どうも私は,ダメだったことばかりがデフォルメされ気になる傾向があるようだ…。

そんなわけで2016年の私,おつかれさまでした。

2016/12/30

織田信長が熱い

最近,織田信長がマイブームである。何度かこのブログにも登場しているスマホゲーム「イケメン戦国 時をかける恋」がそもそもの始まりだが,ゲームだけでは飽き足らず,先日時代小説をゲットした。山岡荘八の「織田信長」(http://amzn.asia/7yFYOr9)である。数日前に読み始めたが,これがけっこう面白い。

マイブームのきっかけとなった「イケメン戦国」内の信長は,ひときわキャラ立ちしている。このゲームのキャラクター設定は,史実や通説が反映させつつ,恋愛ゲーム向きの脚色がなされているが,信長は,突拍子もないことをしでかし,いつも自信たっぷり,冷酷非道な猛者ではあるが,天下布武のためのストイックさを持ち合わせ,家臣思いで,愛した女性をめっぽう大切にする,そんな描かれ方をしている。私はそんな信長にすっかり魅了されてしまった。現代にこういう人いたら,多分恋をするであろう・・・。

そしたら,信長は実際にはどんな人物だったのだろうということがすごく気になってきた。大うつけと呼ばれていたみたいだけど何したの?,冷酷非道って言われているけどなんで?,信長の恋愛事情って?,信長がしたかったことって何?,本能寺の変ってなんで起きたんだ?カリスマ性があったらしいが,それはどこから来たのか?などなど,ゲームのキャラ像と中学歴史程度の信長に関する知識から,気になることがむくむくと湧いてきた。それで手始めに時代小説に向かったというわけである。

昨日大学の友人たちとの飲み会の際,織田信長にはまっていることを話したら,日本史&時代小説好きの友達から,司馬遼太郎の「国盗り物語」(http://amzn.asia/fXZ3zfL)を読むべし!と勧められた。信長の嫁・濃姫の父親である斎藤道三と信長の生涯を描いたものらしい。さらには,ゲーム「信長の野望」やったら?とも勧められた。ゲームをやると,戦国時代のこと詳しく知れるよと。私はゲームに疎いゆえ,そういえばそんなゲーム聞いたことあるな,と思いつつ話を聞いていたら,これまでにリリースされている信長の野望のシリーズの概要を詳しく教えてくれた。信長の野望シリーズそんなにたくさん出ていることにもビックリしたが,その友人がゲームする人だったことも初めて知ってビックリだ。

そんなわけで,気ままに織田信長について学んでいこうと思う。

2016/12/29

初恋物語

私が働いている塾にはたくさんの中学生が来ている。同じ中学校に通う同じ学年の子が集まっていることもあり,休み時間になると仲良く騒いでいる。そんな様子を微笑ましく眺めていた矢先,ある講師の先生から彼らの恋愛事情を耳にした。そしたら,中学生のときの私自身の恋愛の思い出がいろいろ蘇ってきた。それで今,それらについて書きたい気持ちに駆られている。

中学生のとき,私には大好きな人(A君としよう)がいた。多分これは私の初恋だったのだと思う。その前にも好きは人はいたことにはいたが,なんとなくいいなー,かっこいいなー程度の話であり,A君への感情とは少し違っていた。A君とは,中1のときに出合い,ずっと友人関係を続けていたが,中3になる前後あたりで付き合うということになり,数ヵ月後に別れるということになり,それでもずっと好きだった。その後彼への気持ちが消えつつあった時期もあるにはあったが,何かといえば思い出し,会いたいと思い,思い焦がれたり復縁を願ったりしていて,結局完全に吹っ切れたと感じたのは大学3~4年のときである。なので,なんだかんだで10年弱私の心にいた人だ。

A君をどうしてそんなに好きだったのか,正直よく分からない。少なくとも,顔は好きなタイプでかっこいいと思っていた。でもそれだけではなくて,多分彼と友人関係を続ける中で好きという気持ちが成熟していったのだと思う。中1の最初のときにたまたま席が近かったことで仲良くなり,いろんな話をするようになった。本当にたくさん話をした。手紙交換とか,夜中の長電話とかよくしていた。彼の悩みやもやもやした何かを聞いたりもして,中学生ながら,彼のために何かしたいなと思ったり,ずっと一緒にいたいなと思ったりしていた。

当時の私の彼への好きっぷりを象徴する出来事はいくつもある。例えば,中3のときの高校選択。彼に合わせて,自分のレベルに合っていない高校に行くことを考えていたことがあった。また,私の名前をつけてくれた姓名判断の人に,私とA君の今後を占ってもらったところ,結婚することはないと言われ,ひどく悲しかったし,そんなの信じるか!と思ったのもよく覚えている。さらには,高校に入ってからの部活選択。結局,中3のときに「俺のせいで私の成績が下がる」といった理由で私はふられたのだが,その後もずっと好きだったから,高校では男子バレー部に入って,マネージャーをやっていた。それもこれも,彼はバレーボールのスポーツ推薦で私立高校に進学したので,私も男子バレー部にいれば,県大会などできっと会えるだろうという,それだけの理由であった。別れたあとの高校時代,大学時代も,私からメールや電話をしていたし,バレンタインデーには,チョコを渡そうと思って時間を作ってもらったこともあった。

どうやら私は恋をかんばっていたようだ。以前ブログで少女マンガ「イタズラなkiss」の主人公の琴子にあこがれるという話を書いたことがあったが(http://yukiron.blogspot.jp/2015/02/blog-post.html),私もそれに近いことをしていたようだ。それに,私が心理学をやろうと思ったのには,彼の悩みやもやもやを聞いていたことも関わっていたのかもしれない。この恋物語は今までに何度も思い返したことがあるのに,今になっての発見だ。

A君は今,結婚して娘がいる。facebookで友達になっているから,タイムラインでときおりA君自身の写真が流れてくる。それを見かけると,ちょっと切ない気持ちになるけれど,それだけだ。

なんだか今日は随分感傷的になってしまった。

2016/12/28

国語ってどうすりゃいいの

私が働く塾では今,冬期講習開講中だ。入試が迫るこの時期,多くの受験生は1日に複数の教科を受講する。その一方,大学が長期休暇に入るため,帰省したり出かけたりで稼働可能な講師の数が減る。そんなわけで冬期講習の期間中,通常授業でみている英語に加え,国語(現代文)をみることになった。それで,国語ってどうやって教えるのがいいんだ!?となっている。

英語は,文法知識と単語の暗記量が点数を上げるための必須条件である。程度の如何の問題はあるものの,それらさえあれば受験英語は対処できる。問題を解くときに,持っている知識を出したりひっこめたり,組み合わせたりして使いまわせばいいからだ。だからとにかく,文法の問題演習と単語の練習を徹底的にやらせる。長文問題でも,文法力と単語力で長文と設問の選択肢の意味が分かれば恐れることは何もない。長文問題の多くは,本文中に明記されていることしか問われない。言い換えれば,その答えが正解となる根拠が明らかなのである。

では国語はどうだろうか。英語のように文法と語彙はもちろん必要である。さらに漢字も覚えておかなければならない。文法は日本語話者であれば日常的に使っているし,語彙だって文章に出てくるものの多くは分かるだろう。漢字だって普通に生きていればそれなりに書ける。だが,問題はそう易々と解けない。それは,その答えが正解となる根拠が,本文中に明記されているといえないからではないだろうか。

英語と国語の読解問題の違いは,求められている文章の内容理解の深度に由来するのではないかと思っている。英語の長文問題は,表層的な理解でもけっこう解ける。これは文章に書いてあった/書いていないのレベルで大丈夫なものが多い。しかし国語の問題となると,表層的な理解だけで解くとひっかけ選択しに見事にひっかっかったりする。そこに書いてあることから,こういうことが言えるし,これはこう解釈できる,だからこれが正解だ,ともっていかないと正しい答えにたどり着けないことが多い。

そういうわけで,国語をどう教えたらいいか困っている。何回か国語の授業をやって,つくづく国語は英語と同じように教えられないと思った。国語では,英語のように細かく文を分解したところで解決しない。分解するよりもむしろ,文同士や段落同士がどういう関係を持っているかを汲みつつ読まないと,深いレベルの内容理解には達することができない。さらには,その文章(論説文)は筆者の主張と,それを主張するための材料から成っている,と考えて読み進めることが肝要である。そういうふうな文章の読み方をできるようにさせるにはどうしたいいものか。試行錯誤が続きそうだ。

2016/12/27

本レビュー 上野千鶴子「女ぎらい ニッポンのミソジニー」

ここ数日,上野千鶴子の「女ぎらい ニッポンのミソジニー」(http://amzn.asia/gFlGti3)を読んでいた。遥洋子のエッセイ「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」(http://amzn.asia/36r0MDh)に書かれている上野千鶴子に私は衝撃を受けたので,彼女の著作を読んでみたいと思っていた。上野千鶴子といえばフェミニズム,ジェンダー論だ。それに,以前ブログにも書いたが(http://yukiron.blogspot.jp/2016/09/blog-post.html),私は女としての自分を長いこと持て余しいた。そんなわけで興味を持ち,この本を手に取ってみた。

この本は,ミソジニーを軸に,日本社会のあちこちで起こっている現象を分析していくものである。ミソジニーとは「女性蔑視」と訳すことができる。男と女の2つの性別で秩序だっている社会において,ミソジニーは男性から女性への女性蔑視と,女性から女性自身への女性蔑視つまりは自己嫌悪と称することができる。この本についての説明は,私にとってここまでが限界だ。なぜなら,この本は私には難しい。巻末の参考文献の量からも推測できるが,この本を読みこなすには知識量が不足しており,上野氏の文献解釈・文献批判は私の思考レベルを圧倒的に超えており,息を呑むのが関の山。彼女の解釈や意見についてどう考えるかは,ほとんど言えることがない。ただ,そんな状態でもなんとなく共感するポイントはある。それは,女による女へのミソジニーと,女にとっての2つの価値であった。

女にとっての2つの価値とは,「自分で達成する価値」と「他人つまり男から与えられる価値」である。そして,女性にとって現代は,これら両方がないと十分ではない時代(p.205-206)としている。なんというか,これを読んだとき私は理屈抜きで納得した。それは多分,私が欲しているものを言語化してくれたからだ。冒頭で述べた以前の記事にも似たようなことを書いたが,「自分で達成する価値」をいくら得たとしても私は多分どこか欠落感を感じ,「男から与えられる価値」を得て初めて私の中の「女」が満たされるのではないかと思っている。

この2つの価値に関連して,数年前の私の鬱屈を振り返ると,私の中にミソジニーが内在していることが感じられる。私は,「男から与えられる価値」を手にしている女友達(つまり既婚者および彼氏持ち)を妬みを持って眺めたし,彼女たちと一緒に過ごすのを苦痛に感じて避けた。また,「私は彼女たちとは違うんだ」といった特別感を持つ一方で,「男から与えられる価値」を本当は欲していることに気づいてげんなりもした。「自分で達成する価値」の獲得には力を尽くしているはずなのに,「男から与えられる価値」は遠ざかっている気がして仕方がない。そんな感じであった。年齢のせいなのか,経験が増えたからなのか,これらの気持ちは,「自分で達成する価値」に重きを置き,「男から与えられる価値」は「自分で達成する価値」を得るプロセスで得ることができたら・・・というささやかな希望を保つということに今は変換されており,当時よりも若干収束した感はあるが,結局2つを欲していることには変わりない。

自意識に訴えてくるような話は,読むたびに心がえぐられて痛い。だが最低でもそれぐらいのことをしないと,自分のことなんてきっと分からないのだろう。

2016/12/26

自己紹介と見られたい自分像

ドイツ語の授業で,自己紹介を書きましょうという課題が出た。自己紹介を書くという以外に条件はなく,好きなことを好きなだけ書いていいとのことだった。それで早速書き始めたのが,自己紹介を書くって意外に難しい。ドイツ語だから難しいということではなくて,そもそも自己紹介として何を相手に伝えるかを決めるのが難しい。

自己紹介とは,自分はこういう人間です,というのを他者に伝えることである。では何を伝えたら自分がどういう人間かを相手に伝えられるのだろう。まず自己紹介で真っ先に書くことといえば,名前だろう。で,名前を書いたあと早速,次何を書こうか?となった。思いついたこといえば,住んでいるところ,出身地,年齢,専攻,仕事,趣味,性格である。それ,それらについて書く内容を考えてみた。茨城県出身です。心理学を学んでいます。英語講師をしています。日本語にするとこんな具合である。

一通り考えた後,いくつかのことを思った。1つ目は,年齢を書くのはやめようということ。私はアラサー大学生であり,年齢を書けば必ず,なんでアラサーで大学に?という話になる。説明するのが面倒であるゆえ,書くのをやめることにした。そして2つ目は,私の性格ってどんなだかよく分からんなということだった。性格を表す言葉はたくさんある。明るい,責任感がある,人見知り,裏表がない,マイペースなどなど。それでこれまでの自分の経験を振り返りつつ,どんな表現に収束できるかを考えていったのだが,ぴったりはまるものが見つからない。自分のこれまでの行動や考え方を振り返って,これだと感じる性格の表現があっても,「でもこういうエピソードのあったからそうは言えないかも・・・」みたいなことを気にし始めて,自信を持って言えないのである。かといって,暗い,自分勝手などのネガティブな性格表現を進んで使う気にもならない。授業でしか関わりのない先生に,あえてそんなことを言う必要もないであろう。ということで,性格を組み込むのもやめにした。そして3つ目は,私の自己紹介つまらない・・・ということであった。自分が誰かの自己紹介を聞くときに,相手の住んでいるところや出身,専攻,仕事,趣味などが何かを聞いたところで,正直どうでもいいことではないか。相手が言ったことの中に自分との共通点が見つかれば,それは興味を持つきっかけとなるかもしれない。でもそれがなかったら,聞いたところで「へーそれで?」って感じである。客観的な事実だけを羅列した自己紹介はつまらなく,その人らしさがあまり出てこない。そこで,主観的な話を盛り込むことにした。例えば仕事についてだったら,なんで英語講師をしているのかや仕事についてどう思っているかなど。例えば趣味についてだったら,その趣味にまつわる具体的な思い出やそこで感じたことなど。そんな調子で書き進めていき,最後は今後やってみたいこととその理由を書いて一通り書き終えた。主観的な話をいろいろ書いたので,私がどういう人間かがそこから垣間見ることができると思うし,事実を羅列しただけの一本調子の自己紹介よりも私という人間を多く紹介できたと思う。

冒頭で,自己紹介って意外と難しいと述べた。上述した自己紹介完成までのプロセスが示している通り,その難しさは,相手に伝えたい自分像と伝えたくない自分像,相手に思ってほしい自分像と思ってほしくない自分像を考慮しながら,伝えることと伝えないことを選別し,伝えることについてはどう伝えるかまで気にかける,ということから生まれて来るのだと思った。自己紹介は自分で何を伝えるか選ぶことができる。それゆえ,自己紹介を聞いたり読んだりして相手が受けるであろう自分の印象をある程度操作することができる。そのメリットを最大限生かそうとするからこそ,難しくなるんだろう。

2016/12/25

クリスマスと恋愛と

オンライン英会話のときに,この記事(https://goo.gl/FFIc94)が話題になった。あるウェディング関連のポータルサイトが,「クリスマスイブだけの相手」について20-39歳の女性253人に調査したところ,39.5%の人が,たとえその人とはもう二度とデートしないと思っていても,誘いがあればその人とのクリスマスイブデートに応じるということであった。調査をしたところが結婚関連のポータルサイトだから,きっと恋愛に積極的な女性が集まっていることと推測する。私だったらどうするだろうか。

そんなことを考えていたら,ふと記憶がよみがえってきた。数年前,大学の友人たちとの飲みの席で頻繁に話題になっていた,「明確な好意を感じていない相手とデートするか」問題である。友人たちは,明確な好意を感じていなくてもデートする派で,私は明確な好意を感じていなかったらあまりデートしたくない派であった。デートする派の理由としては,デートしたら相手のことをもっと知れるし,それでもしかしたら好きになるかもしれない。相手のことをよく知らない状態でこの人はダメとしてしまうのはもったいない。そんな感じであった。あまりデートしたくない派の私の理由は,好意を感じていない人と楽しく過ごせるのかという不安,であれば他のことに時間使ったほうがいいよな,という気持ち,さらには,一緒に過ごしてもあまり好きになれなくて,でも相手は好いてくれているとき,私は流されずにいられるのか?(これは過去の恋愛経験に由来する)といったことであった。当時の私が考えていたことをこうやって書いてみると,なんというか,独りよがりで恥ずかしい。デートの現実を無視しているし,相手の視点が抜けている。今思えば,当時の私は,デートと付き合うことを同じととらえていた。なんというか,デートするから付き合うし,付き合っているからデートする,みたいな感覚である。下手に真面目というか,警戒しすぎというか,余計なことを思い込みすぎというか。それじゃ彼氏できないよとさんざん批判されたが,まぁ,それもそうだろうと思う。機会損失になるのだから。とはいえ,私のようにデートしない派でシングルでない人もいることを思えば,つまるところどっちであってもあまり関係ないのだろう。決まるときは決まるということなんだと思う。ちなみに今は,デートすることは互いのことを知っていくプロセスだととらえている。私がその人に好意を持とうが,その人が私に好意を持ってくれていようが,そのプロセスの中でどちらかが合わないと感じればさよならする。それは付き合っていてもいなくても変わらない。

で,最初の問いに戻って結局私だったらどうするのか。やっぱりしないだろうなと思う。そもそも二度目のデートはないと思っているということは,その人に関心がなく,自分が求めているものを持っていないと判断した状態であろう。確かにデートして新たな発見があったり好意をもったり,ということはあるかもしれない。でも,自分の中で終了している気持ちをあえて呼び起こすこともないよな・・・と私は思うほうだ。

この調査は,クリスマスイブのデートに限定しているが,クリスマスイブでなかったら,YESと回答した40%弱の人はデートの誘いには応じるのだろうか。応じないとしたら,クリスマスマジックみたいなものなんだろうか。クリスマスと恋愛は切り離せないような雰囲気が巷にはある。私もその風潮に大いに煽りを受けて生きてきた。クリスマスといえばカップルの一大イベント,シングルの人間にとっては,それまでに相手を見つける!とか,相手のいない者は共に寂しさを分け合うとか,そんな話ばかりが耳に入ってくる。それで余計に寂しくなったり,敗北感を感じたりということのを経験してきた。にしても,どうしてこうもクリスマスと恋愛は結びついているんだろうか。

クリスマスにシングルであろうがなかろうが,年を重ねてどうでもよくなってきた。彼がいてもいなくても,楽しい時間になることもあるだろうし,つらい時間になることもあるだろう。相手がいるかいないかだけで左右されるものではないよなと思う。

2016/12/24

クリスマスイブの持ち寄りスナック

今日はクリスマスイブ。クリスマスイブは教会に行き,礼拝とホームパーティーをするのが定番となっている。ここ数年,花を持って教会に行くのがデフォルトになっていたが,今年は何か違うことがしたいなと思って,何か料理して持っていこうと思い至り,数日前から何を作ろうか考えていた。ホームパーティーでは毎年,豪華で美味しい料理や,初めて食べるような味の料理がふるまわれる。だから,仰々しい料理ではなく,簡単に食べられるスナック的なものがいいなと思って,ネットで調べてみた。そして目に留まったのが,餃子の皮で作るキッシュのレシピ。可愛いしおいしそう!と思って,これ(http://youpouch.com/2016/11/09/393599/)を参考に作ってみることにした。

初めて作る料理かつ,人に食べてもらう料理ゆえ,ひとまず昨晩練習がてら作ってみた。キッシュの中に入れる具材はレシピとは変えて,ハムとターサイとチーズで。塩コショウの分量の調整と,食材の大きさは少し変えたほうがいいなと思ったが,良い感じに完成!周りの餃子の皮もいい感じに焼けて,パリパリの食感を楽しめた。

昨晩の練習時に,もう一つ別のキッシュを作っていた。それはこれ(https://www.youtube.com/watch?v=heVKZl5vIlY)を参考にした。こちらは,失敗である。家のフライパンが大きくて,卵をたくさん使わないとここで紹介されている完成品のようにならないことが判明したのだ。昨日作ったのは卵の量が少なかったので,キッシュというよりもピザに近いものだった。しかも餃子の皮がけっこう焦げてしまい,まずくはないがそれほどでも…という感じ。そういうことで,こちらを作って持っていくことはあきらめた。

そんなわけで昨夜の反省点をふまえてキッシュ作りを始め,ついに完成した。それがこちら。 色とりどりでなかなかよい感じに仕上がった。ちなみに,形がこのようになっているのは,円形の餃子の皮をシリコンカップ(お弁当のおかずを入れるときに使う,アルミカップのような形のもの)にしいて焼いているためだ。どれ一つとして同じ形はなく,それもまた面白い。
昨日の具材に加え,にんじんとツナも加えて,数種類の組み合わせを作り,チーズによる味付けのほか,スイート&スパイシーペッパーソースも入れてみた。このソースとツナやハム,卵はよく合うから,美味しくなるに違いない,との期待を込めて。

喜んでもらえるといいな。

2016/12/23

Glühweinの季節です

最近,家に帰ってきてから軽くお酒を飲むのが日課になっている。先月,なぜかははっきり分からないが,無性にお酒が飲みたい気分になり,この時期に旬の,かねてから飲みたかったGlühwein(グリューワイン)を買って飲んでみたところおいしくて,それで晩酌が始まってしまった。

Glühweinとは,赤ワイン(白ワインで作られることもある)に砂糖やシナモンなどの香辛料,柑橘系の果物をなどを加えて煮て作った,ホットワインである。ドイツのクリスマスには定番の飲み物らしく,この時期各地で開催されるクリスマスマーケットでよくふるまわれているらしい。私が飲んだのはこちらの2種類。ラプンツェルのhttp://amzn.asia/33VRj61と,マリエンゴールドの(https://goo.gl/x5w4Kg)である。味が違うのは分かるのだが,ワインに飲みなれていないゆえ,何がどう違うかが説明できない(汗)私に言えるのは,どちらもおいしく,寒いところから家に帰ってきて身体を温めながらほっと一息つけるような味だということくらいだ・・・。私には甘さもちょうどよいし,香りも好きだ。


ワインに何かが加わった飲み物といえば,サングリアもよく知られている。私はサングリアも大好きで,飲み屋に行ってメニューにあればたいてい注文する。以前親戚との飲みの席でサングリアを飲んでいたところ,私の母方のおばあちゃんが昔よく作っていたという話を聞いた。大きな器に赤ワインを入れて,オレンジなどを漬け込んでいたらしい。たしかに私の記憶の中のおばあちゃんは,よく何かしら作っていた。梅ジュースや梅干し,ぬか漬けなど,おばあちゃんが作ったものをお母さんはよくもらってきていたものだ。まさかサングリアも作っていたとは!けっこうな驚きだった。おばあちゃんは亡くなってもう久しいし,うちの母はほとんどお酒を飲まないからすっかり記憶が薄れていたが,そういえばおばあちゃんはお酒をよく飲んでいたっけ。

そんなわけで,今日もGlühweinを飲みつつ,一日を終える。

2016/12/22

英語指導での気づき

働いている塾でここ半年くらい,来年1月にセンター試験を受験する高3生(1人)の英語を担当していた。今日はその子の英語を担当する最後の機会だった。その子の英語を担当しているもう1人の先生が,センター試験までの残り20日余り専任で担当することになっているからである。適材適所の采配だと納得しているが,自分の力不足が悔しくもあり,思い入れがある生徒だけに寂しさも感じている。ここに来て点をとれるようになってきているので,あと二十日余り,がんばってほしい。

センター試験の英語対策を塾で教えるのは,今年初めての経験だ。私自身,センター試験を受けている。確か,8割くらい点をとっていた。しかしそれは2005年のこと。10年以上も前だ。当時私は過去問を解いてセンター試験対策を行っていたが,詳しいことはほとんど覚えていない。だが,英語の勉強自体については,一般的な人よりも年季も執念も入っている。私の場合,20代になってからの方が高校時代よりも英語の勉強に費やしているので,覚えていることも多い。だからそれをベースに,春くらいから英語の基礎力づくりをサポートしてきた。とはいえ,思うように成績は上がってくれず,少し不安だった。

11月くらいからは,センター試験の練習問題や過去問を利用した対策にシフトしていった。それで,センター試験の何年か分の過去問と,センター試験対策問題集に出ている問題を一緒に解きつつ解説したりしていった。その中で,私が実際に受けた年度の問題にもあたったが,ここ数年のセンター試験の問題形式とは違うところがけっこうあった。ちょうどその頃,もう1人その生徒の英語を担当する先生が決まって,その先生と授業内容などのすり合わせでよく話をするようになっていった。

その先生が来てくれたことに,私は正直ほっとしていた。それは,センター英語対策をどう進めていくのがよいのか,よく分からなかったからだ。英語力が十分あれば,センター試験だろうと別の試験だろうと点数はとれる。しかし,英語力が不十分な状態で少しでも高い点をとらせるにはどうしたらいいか。今のままの勉強の仕方で大丈夫なんだろうかと思った。そんなとき,その先生が,センター試験では○○しか聞かれないとか,文章のどこを読めば答えを見つけられる,などのセンター試験虎の巻的な知識をたくさん持っていることが分かったのだ。それでその先生はその生徒にそれらを伝授してくれるという。それを聞いて,あぁ,私にはこれが足りなかったのかと思った。要は,問題の分析をろくにしていなかったのだ。生徒の英語力について,より伸ばすべきところや克服すべきところを分かっているだけでは,試験で勝てない。孫子もそんなことを言っていたのを今更思い出している。痛い経験だが,経験してよかった。その生徒の英語からは外れるが,高校入試の生徒や,受験生以外の生徒も担当しているので,この経験を生かしたい。

今度のセンター試験の英語は,自分でも通しで解いてみようと思う。

2016/12/21

言語化の効能

今日は言語化することのメリットについて書こうと思っている。というのも,自分がなんとなく感じていることや思っていることを紙に書きだして可視化すると,考えている内容がより明確になり先に進むという経験を私自身何度かしており,言語化することで生産的になれるなと感じていたからだ。それで,言語化することのメリットについて,好きなことを発表していいことになっている認知心理学演習の時間に,それらを扱った論文をいくつか発表することにした。今日の午前中発表してきたところである。

今日の発表で取り上げた論文の多くは,言語化することで自己成長や意識改革へと導くことができるというていで話が進んでいる。論文の中で取り上げられていたケーススタディで面白かったのは,コーディネートの上達のために言語化を利用したケースだ(庄司・諏訪,2008)。実験参加者(大学生の女性)は,自身のコーディネートをよくするため,8ヵ月間言語化を行った。言語化は,ファッション雑誌を読んでそこに載っているモデルの写真の中から気に入ったコーディネートを切り抜き,感じたことをメモすること,買い物の際に目にした洋服やアクセサリに関して感じたことをメモすること,ファッションに興味のある友達と座談会を開いて,それぞれのメンバーにどんなコーディネートが似合うか意見交換をしたり,そこで感じたことや考えたことをメモすること,で行った。記述内容は,言語化を進めてく中で変化していった。最初の頃は,自分と洋服を概念的に合わせることについての内容が目立ったが,3ヵ月後くらいからは,自分の身体部位の特徴や,洋服の見た目を関連付けた知識が頻繁に登場するようになる。さらに,5ヵ月後くらいからは,相手からの視線と自分の身体部位や洋服を関連付けた知識がたびたび出てくるようになり,6ヵ月後くらいからは,これまでの記述で出てきた知識が統合されたような知識が書かれるようになっていたようである。論文では,言語化によって生じる変化ついて,自分の中にだけあった表象が外に出されることで,他の表象との関係の発見が促されるようになることや,言語化することで今まで見いだせなかったものに気づくようになること,自分と周り(環境)との関係が再構築されることや,知識が単なる知識にとどまらず,自分とリンクして咀嚼されていくことなどを挙げていた。これらによって,人の意識改革が促される,というわけだ。

冒頭でも述べている通り私は,言語化することで考えが進み,より生産的になれることを感じている人間なので,この主張はけっこう納得ができる。ぼんやりとしたものをいくら思っても,何かに答えを出すことはできない。言語化するとは,ある意味,一つ一つの思いを決着していくことだと思う。だから次に進めるのだろう。

しめくくりにこの言葉を。

”ホモ・サピエンスたるもの,誇りを持って自分の言語を駆使しましょう”

この言葉は,私が今年最もよく読んだであろうブログ&twitterの住人,ぱぷりこさんが著書「妖怪男ウォッチ」(https://www.amazon.co.jp/dp/4800258073で言っていたものである。私はこの言葉を気に入っている。


引用文献
庄司裕子・諏訪正樹(2008) 個人生活における価値創造の方法論:メタ認知実践のケーススタディ (https://goo.gl/WShJE3

2016/12/20

パラフレーズは勉強の友

今日は,英作文の時間にパラフレーズの練習をした。あるテーマについて書かれた短い文章を読み,そこに書いてあることをパラフレーズしながら要旨を作る。そのあと,同じテーマについての講義(内容は文章とは別)を聞いて,それもパラフレーズしながら要旨を作る。そして最後に,2つの要旨を再構成して1つの文章を作る。TOEFLのintegrated writingでも同様の問題が出題される。

パラフレーズをすることは,英語/日本語関わらず,何かを勉強するときにとても役に立つ。パラフレーズのプロセスは大きく2つに分けることができる。文献に書かれていることや相手の言ったことを理解するフェーズと,それを別の言葉で表現するフェーズだ。両方ともうまくできないと,話が別のほうにいってしまう。だから,パラフレーズをしてみることで,自分がどれくらいそれを理解しているのかを確認することができるし,自分の表現の幅を広げることができるのだ。

勉強するとき,インプットだけでなくアウトプットが大切だということをよく聞く。子供のころはアウトプットといえば問題集を解くことばかりしていたが,資格試験や語学でもない限り,大人になっての勉強は問題集があるわけではない。そこで,読んだことや聞いたことを書き出す,というアウトプットをすることになるのだが,やってみるとインプットだけのときよりも断然理解が進むことを実感する。アウトプットすることで,インプットのときに感じた「あ~なるほど,分かった」が,「分かったつもり」だったことに気づき,もうそれを一度読んだり,別の素材にあたって調べたりするからだ。また,個人的な感覚では,同じアウトプットでも,文献に書いてあることや先生が言ったことをそのままメモするのはあまり効果がないように思う。あくまでも,自分の言葉で書くこと,つまりパラフレーズするのがよいのである。多分,同じことをそのままメモするというのは,行為としてはアウトプットだが,頭の中ではインプットでの処理と大差ないのだろう。パラフレーズするとなると,内容を解釈して,それを表現するための適切な言葉を見つけるという作業が組み込まれるので,理解が促されることになるのである。

とはいえこのパラフレーズ,やってみるとけっこう疲れるもので,必要ないならやりたくない,というのが正直なところだ。しかし私は,仕事でもプライベートでもしばしば,「中学生にも分かるように話しなさい」と言われる。つまり「優れたパラフレーズをせよ」ということだ。日々精進である。

2016/12/19

考えるための講義

今学期,月曜日に履修している講義はけっこう重たい。今日もまたヘビーな時間であった。2つの科目を履修しているが,1つは昨日テスト勉強の記事で話題にした認知神経科学,もう1つは,フランスの思想家エマニュエル・レヴィナスがラジオ番組で語ったことをまとめた「倫理と無限」(http://amzn.asia/fzR3oAi)を読んでいく,というものである。認知神経科学はまだよい。毎回新しいことを学んでいるので確かに難しいが,多分その難しさは専門用語が多いことや,たくさんの要素が互いに相互作用して何らかの現象を成り立たせていることから,メカニズムが複雑であることなどに起因する。だから,用語の定義を把握し,複雑なメカニズムを整理していけば,けっこう理解が進むのである。また,心理学でこれまで学んできたこととも親和性があるので,比較的とっつきやすいし話についていきやすい。しかしレヴィナスの講義についてはそうはいかない。難しいことには変わりないのだが,認知神経科学の難しさとは違うように思える。何が違うか説明しにくいのだが,レヴィナスの気持ちになりきれないこと,彼の視点でものを見ることができないことからくる難しさと言えばいいのだろうか。

この講義では,私はいつも頭をフル回転させている。文章を読んでは,彼が何を言っているのか/言いたいのかよく分からずにちょくちょくつっかかる。これはこういうことか?なんでそう言えるんだ?とか,とにかく考えながら文章を読み進めている。また,先生やほかの哲学や思想に明るい学生たちが解説しているのを聞き,少しでも文章を理解しようとがんばっている。それでも,分かったような分からないような,ぼんやりとした感じで講義が終わることがしばしばだ。

そんな調子で毎回講義に出席していて気づいたことがある。私のこのような姿勢は,あまりほかの講義では見られないものなのだ。私はたいてい,講義で扱った内容について覚えたり,理解しようとして講義を受けている。当初はそんな感じで受けていた。しかしいつしか,覚えたり理解したりすることが最重要目的から外され,彼の言っていること自体について考えてみたり,彼が問題としていることについて自分なりに考えたりするようになっていた。彼の本の内容が一筋縄では理解できず,読んでも周りの人の話を聞いてもすっきりしないからそうなっていったのだろう。

私はこの体験をとてもポジティブにとらえている。理解した!とはならなくとも,この講義では考えることそれ自体に価値があるんじゃないかと感じている。だから,今後も文章に,レヴィナスの視点に寄り添いつつ,彼の話を考えていこうと思っている。思想・哲学を学ぶとは,そういうことなんじゃなかろうか。

2016/12/18

テスト勉強

明日,認知神経科学のテストがある。それでテスト勉強を始めたが,気が散ってなかなか先に進まない。ということで,とりあえずコーヒーを作って飲んでいる。コーヒーを飲むと覚醒する。だからそれでテスト勉強のモチベーションを上がるかもしれない。そして今ブログを書いている。ブログを書くためには考えるから,記事の更新がテスト勉強の助走になるかもしれない。

気が進まないならやらないで寝ちゃえばいいのにと感じつつ,それをできないことがもどかしい。だからこうしていろいろしつつ気分がのってくるのを待っているわけだが,昔はよくテスト勉強をしていたなとつくづく思う。

私はよくテスト勉強をする子だった。テストがある=テスト勉強するというのは,私にとっては極めて自然なことで,テスト勉強を全くせずにテストを受ける人たちが信じられなかった。それもこれも小さいころからそう教育されてきたからだと思うが,全くテスト勉強をせずにテストを受けたことはこれまでに一度もない。それに,昔の私にはテスト勉強時の強い味方がいた。記憶力である。中学生のころは本当に記憶力が良かったと思う。教科書の本文を一言一句間違えずに暗記することも難なくできていた。

そのころに比べたら,テスト全般に対するモチベーションは下がったように思う。しかも,当時ほどの記憶力もなくなった。テストに対するモチベーションが下がったのは,テストが褒められるためのツールとして機能しなくなったからだろう。昔はテストでよい点をとれば褒めてもらえたが,今は褒めてもらえず,誰かに言えばただの自慢になる。よい点をとることへの自己満足はある,でもそんなのはたかがしれている。テストへの認識,意味づけを根本から変える必要があるんだろうと思う。テストは何のために?自分のわかっていないところを把握して,次へ進むための手がかりとするためのツールじゃない?という具合に。記憶力については,まぁ,年をとったから仕方ない。何度も繰り返せば定着することは分かっているので,そうするだけだ。

ではそろそろ勉強を再開しようか。

2016/12/17

適当料理

毎週土曜の深夜,フジテレビで「久保みねヒャダ こじらせナイト」(http://www.fujitv.co.jp/kojirasenight/)という番組が放映されている。私はこの番組が大好きで,毎週録画して見ているのだが,その番組内のコーナーの1つに「予想を下回る微妙な料理」というのがある。視聴者から送られてきた,美味しいだろうと思って作ってみたはいいが思ったほど美味しくない,うーん…微妙な味…,と感じる料理を紹介するコーナーである。先日は,「お餅カレー」や「ヨーグルトトースト」が紹介されていた。

さて,私は料理をする。とはいえ正直料理が好きなわけではないし,こだわりがあるわけでもない。料理についてちゃんと学んだわけでもないから,私が作る料理はいい加減である。以前友人と,何を作るか決めるとき,料理が先か材料が先かの話をしたことがあった。ちまたではレシピ本があふれ,おふくろの味,あのときのレストランで食べた味などもあり,すでに存在しているありとあらゆる料理があふれている。それらの完成した料理ありきで,材料を集めたりしつつ料理をしていくのが前者である。一方後者は,まず食料棚や冷蔵庫の中身確認から入る。そしてあるものを組み合わせてなんとかしようとする。そしてなんとなく料理らしきものが出来上がる。私も友人も後者であった。一人暮らしを始めて12年余り,そんな感じでほぼ毎日なんかしら作っているのだが,けっこうさまになっていて,自分が作った料理でまずいと思ったことはほとんどない。作る前になんとなく味が想像できることが功を奏しているのだろう。せいぜい焦がした料理にゲッとなったくらいである。

しかしながらここ数日はちょっとピンチな状況になっている。なぜなら,うちの食料棚と冷蔵庫にあまり食材が入っていないからだ。買い物するのが億劫でしていないからそうなっているだけなのだが,使える食料の種類が少ないとそれだけ何を作るか頭を悩ませることになる。今ある材料のみの組み合わせで作ったことのある料理は全くないが,いかがなものか…。そこで思い出したのが,前述した久保みねヒャダのコーナーである。微妙だったら投稿しちゃえと,早速,初めての味になるありあわせ料理を作ってみた。それはツナキムチパスタである。作り方はいたって簡単だ。ゆでたパスタに,うちにあった「宗家(チョンガ)白菜キムチ」(今まで食べたキムチの中でこのキムチがいちばんおいしい)とツナ缶のツナを混ぜるだけ。キムチとツナが合うことはなんとなく想像がつく。でも,キムチとパスタは微妙な気がするな・・・そんなことを感じながら食べてみると,けっこういけるではないか。いや,むしろ美味い。微妙な味になることを想定し,投稿しようと息巻いていたのに,拍子抜けしてしまった。



思い込みを超えたところにい新しい発見があるんだなということと,使えるものがないときこそ創造力が試されるなということを実感した次第である。

みなさんもぜひお試しを。

2016/12/16

心理学実験やっています

今年に入ってから,学内で行われている心理学実験の実験者としての仕事をしている。自分の研究の実験ではなく,先生や院生の研究の実験を行う人として,参加者の人に実験内容の説明をしたり,実験手続きを遂行したりしている。現在関わっている実験は2つ。表象的慣性(動いているものが視界から消えたとき,それが実際に消えた位置からずれた位置で消えたと認識すること)に関する実験と,音楽の反復聴取と作業効率の関連についての実験だ。本日は,珍しくどちらの実験のシフトも入っていた。表象的慣性の実験については何度もやっているのでだいぶ慣れてきて,スムーズに終了。音楽の実験は今日が3回目。1回目2回目とトラブルが発生してひやひやものだったので,今日のは無事に終えることができてほっとしている。自分の研究の実験ならまだしも,他人の研究の実験なので,結果に影響を及ぼすようなミスはしたくない。

実験を実施して感じることは,まず,「参加者のみなさん,ありがとう」ということだ。上で述べた表象的慣性の実験については,2回私もテスト参加者として参加しており,音楽の実験については,現在行われている実験の予備調査のときに参加者として参加している。どちらの実験も,参加者にとってはけっこう負担が大きいように思う。表象的慣性の実験は,全体で2~3時間を要し,比較的単純なことを繰り返す課題をやってもらう。音楽の実験のほうは,1.5時間くらいを要し,こちらも同じく比較的単純な作業を繰り返してもらう。長時間単純作業を繰り返すことほど眠気や疲れ,イライラが募るものがあるだろうか。私はこれ以外にも,学内で行われている心理学実験にいろいろ参加してきたが,この手の実験が終わった後の解放感は半端ない。どんなよい実験パラダイムが思い浮かんでもやってくれる人がいなければ何の意味もないわけで,実験に参加するために時間を作ってくれる参加者がいるということは,ありがたいなと思う。

実験をしながら考えていたことがもう1つある。上で述べたような実験は,実験室実験と呼ばれている。現象の因果関係を導くために,原因となる変数以外の変数の影響が最小限にするべくコントロールされた状況で行うからだ。しかし,私たちが生きている現実は,いろいろな変数が絡み合って何らかの現象を起こしている。とすると,実験室実験の結果は,日常生活で起こっている現象をどれくらい反映するのだろうか。もう1つ実験室実験で気になることがある。それは参加者の人たちの取り組みだ。私も自分が実験の参加者であるときはそうするのだが,自ら実験に参加すると名乗りでてくれる人たちは,実験にとてもコミットしてくれる。実験者としてはそれはとてもありがたいことではあるが,そのコミットメントの強さが結果に影響を及ぼすことがある。やはり日常でのふるまいをどれくらい反映するのかが気になるところだ。

2016/12/15

研究をまとめ直してみたら

午前中から取り掛かっていたレポートが一段落ついた。大学での単位取得のため,今年の3月に発表した研究を,レポートとしてまとめなければならなかったのだ。発表時にある程度まとめていたのだが,改めて見直してみると,そのまとめ方が恣意的かつずぼらであった。こりゃまずい,と整理し直して文章化。元のものより分かりやすくなったと思う。が,しかし,やっぱりこの研究,客観的に見てあまり面白くないなと再認識してしまった。この研究の続きを進めてまた来年の3月に発表しないかと誘われているが,どうしたものか。

この研究については一度,ブログ内で言及したことがあった(http://yukiron.blogspot.jp/2016/03/1.html)。かなり付け焼刃な状態でエイッと進めてしまった。だから,興味を持ったテーマがぼんやりとある状態から,実験や調査可能なテーマへと絞り込んで,実験や調査の方法を選定するというプロセスをおざなりにしてしまった。たぶんそのせいだろう。なんとも薄っぺらい感じが否めない。実験やデータ分析自体は問題なく行えたため,結果もしっかり出ている。しかし,「私この時本当にこれ知りたかったんだっけ?」という思いがむくむく湧いてきた。

以前,面白い研究についての記事も書いたことがあった(http://yukiron.blogspot.jp/2016/09/blog-post_29.html)が,私面白いと感じた研究は,日常生活でなんとなく感じていることや目にしているものについて,「え,そんなことする必要が?」というくらいしつこく食いついた結果得られた新たな発見,という感じであった。なんというか,目の前で起こっている現実をベースに一つ一つ積み上げていくイメージである。では,私の研究はどうだろう。私が研究テーマを選んだとき,私も日常生活での気になることからスタートした。しかし,次のステップで先を急いだように思う。その気になることについていろいろ考えをめぐらす前に,すでに心理学の世界にある概念や手法を援用して,実験や調査を組み立てたのだから。それでは,薄っぺらい研究になってしまっても仕方がない。

なんとも後味が悪い。

2016/12/14

プロジェクト4日目の雑感

ブログを毎日書こうプロジェクト4日目になった。2日目の月曜日,3日目の火曜日,そして今日,と3日連続でいつもより少し早く起きてブログにとりかかるようにしている。朝の時間だけでブログを書き終えることはできていないが,1日を通して振り返ってみると,前よりも余裕のある1日を過ごせているような気がする。やることは増えているのに,他のことが,ブログを書くということを筆頭に組織されて,収まるべきところに収まっている,という感じである。

この変化は何に由来するのだろう。とりあえずまだ4日目なので推測の域を出ないのだが,考えなければならないということと,リミットを設けていることが効いているように思う。当たり前だが,ブログを書くには考えなければならないのである。それも,朝早く起きてブログのための時間を設けているので,朝から何かしら考え始めている。私はもともと朝の時間を,ストレッチやマインドフルネス,オンライン英会話などをする時間にあてていて,あまりぼんやり過ごしていない気でいたが,思えばどれも,それほど考えなくてもできることである。いや,オンライン英会話においては考えなければできない。でもブログを書くほうが考える量が多く,深度が深い。何を書くかは一日の細切れの時間で考えていることが多いが,決まるまでは頭のどこかにそれがあって,今その場で経験していることもブログ記事に昇華させられるかを考えていたりするので,ただなんとなく時間を過ごしているということが減っていっているように感じる。また,ネタが決まりさぁ書こうとなって書き始めてからも,時間は待ってくれないからなんとなくパソコンの前に座っているわけにいかない。頭の中で思っていたぼんやりしたことをより明確に文章で表現すべく,集中することが求められる。とはいえ,一気に最後まで書き上げられないから,これを1日に何度か繰り返すことになる。

つまりは,1日1つ記事を書くというゴールに向けて思考が動く→考えるという行為により,その時間を凝縮された時間として経験する→結果的にメリハリができて,余裕を感じる,ということではなかろうか。

どこまで私は続けることができるのだろうか。とりあえずがんばってみよう。

2016/12/13

長期増強と長期抑制

来週,認知神経科学のテストがある。そこで,テスト勉強がてら講義で学んだことを少しまとめておこうと思う。まずは長期増強(LTP: long term potentiation)と長期抑制(LDP: long term depression)について。「ヘッブ則」という,神経科学分野においては基本かつ重要概念も一緒にまとめる。このヘッブ則,昨年別の講義でも習い,よくわからなくて先生に聞いたのだが,それでもいまいち理解できなかった。しかし,先生が変われば説明も変わるわけで,今回の講義で理解がすすんだ。

長期増強と長期抑制は,学習に関わる概念である。心理学における学習とは,経験によって比較的永続的な行動の変化をもたらす操作,およびその過程を指す。一般的に学習と聞いて思い浮かべる概念とは隔たりがある。さて,では経験によってなぜ行動が変化するのか。神経科学によるその答えは,経験は,ニューロンのシナプス形成や刈り込み,強度変化などをもたらし,神経回路を変化させるからである。端的にいうと,経験は脳内の情報伝達ネットワークを変化させ,それによってそれまでとは異なる行動が生まれるというわけである。

可塑性があるため,経験によって神経回路の形成が変わるわけだが,神経回路はそもそもどのようにできていくのだろうか。まずニューロンは,脳内の脳室の表面の脳室帯で発生することが知られている。神経幹細胞は発生後上に上っていき,辺縁帯と呼ばれるところに到着すると,核の情報を2倍にし,脳室帯へと下がっていく。そしてそこで細胞分裂を起こす。垂直分裂を細胞からは新たな神経幹細胞が生まれ,また辺縁帯へと上がっていき,細胞の生成に寄与する。一方で水平分裂をした神経幹細胞からは,新たな神経幹細胞のほか,ニューロンやグリア細胞へと変化する細胞が生まれる。細胞が増えるにつれて脳の容量を上に上に増やしていく。その際,新しくできたニューロンたちは,遊走しながら適切な他のニューロンを引き付けて,自らの役割を定めていく。どこにあるニューロンがどこにあるニューロンを引き付けるかは決まっている(化学親和性仮説)ものの,神経回路には可塑性がある。だから伝達される活動電位が少ないニューロン間の結びつきは離れ,伝達される活動電位が多いニューロン間での回路が構築されていくのである。

「ヘッブ則」というのは,まさにこの活動電位の伝達と神経回路に関する法則である。あるニューロンが活動電位を生じ,それによって他のニューロンにも活動電位を生じさせたとき,そのニューロン同士の結びつきが強くなる,という法則だ。この結びつきが強くなるときにニューロンで起こっていることは,シナプスの構造の変化である。活動電位は,あるニューロンの軸索から他のニューロンの樹状突起へと伝わる。あるニューロンの軸索と他のニューロンの樹状突起は,くっついているわけではなく,シナプス間隙と呼ばれる隙間がある。あるニューロンで生じた活動電位は,軸索の先まで来ると化学物質(グルタミン酸)を放出するのだが,その放出された物質をほかのニューロンの樹状突起にある受容体(NMDA受容体,AMPA受容体など)が受け取ることで,そのニューロンに活動電位が伝わるのである。この現象が2つのニューロン間で繰り返し起こると,活動電位を受け取る側のニューロンが,樹状突起のAMPA受容体の数を増やすということが起こる。それによって,よりたくさんのグルタミン酸を受け取れることとなり,そのニューロン間の結びつきが強くなるのである。

長期増強と長期抑制は,このヘッブ則を元に成り立っている現象である。長期増強とは,活動電位を伝えられるほうのニューロンが高頻度で発火していたり,また発火しているときに,そのニューロンと結びつきのあるニューロンが同期して活動すると,そこの結びつきが強まるという現象だ。活動電位は,活動電位を発しているニューロンの軸索を通じて他のニューロンに活動電位を発生させるだけでなく,樹状突起から他のニューロンの軸索へと逆行して伝達されるため,同期した活動が生じる。一方,長期抑制は,長期増強と反対の現象である。つまり,活動電位を伝えられるほうのニューロンが低頻度で発火していたり,また発火していないときに,そのニューロンと結びつきのあるニューロンが同期して活動すると,そこの結びつきが弱まるという現象である。長期抑制のときには,活動電位を受け取る側のニューロンの樹状突起のAMPA受容体の数は減る,という構造変化が生じている。


参考資料
認知神経科学講義資料
中島義明ら編「心理学辞典」(http://www.amazon.co.jp/dp/4641002592

2016/12/12

ゲームで鍛えられること

「ポケモンGO」をプレイしながら最近感じたこと,それは,ゲームで忍耐力や自制心を鍛えることできるのかもしれないな,ということである。

私は「ポケモンGO」をリリース直後の今年の7月後半から始めた。途中数週間放置していたこともあったが,再開し,今は,歩いているときにはアプリを起動して地味に続けている。目的地―駅間でのプレイが中心だ。そんな調子でやっているから,なかなかポケモン図鑑がコンプリートできない。一日に歩く時間なんて数分×数回だし,ポケモン探しに遠出もしない。それに課金もしない。ネット情報によれば,一定のエリアにしか生息しないポケモンがいるらしいので,それらを捕獲することは保留にしたとしても,比較的広範囲に出現するポケモンや,今持っているポケモンを進化させればいいポケモンについてはコンプリートを狙いたい。だが,進化させるには,プレイ時間を増やさざるをえない。さっさと全部集めたいが,「ポケモンGO」を優先させる生活はしたくない。そうすると結果的に,コンプリートまでにはまだまだかかることとなり,私の忍耐力と自制心が試されている気がしてくる。

道を歩いていて,ポッポやコラッタ,ズバットなど,いつも目にするポケモンばかり出てくると,かなりイラッとする。しかし,それでもたまにレアなポケモンが出てくることがあるし,とりあえず歩けばタマゴを孵化させてポケモンをゲットしたり,進化に必要なアメがもらえたりするので,起動する。レアなポケモンに遭遇しても,簡単にとれときばかりではない。今のところ捕獲率のが逃す率よりも高いが,逃すとけっこ悔しい。あぁ,コンプリートが遠ざかったと…。あとは,例えば駅について次の電車が来るまでに時間があるときには,駅の周りを散策したりする。そうすると,たまに新しいポケモンに出会ったりして,気分がとても良くなる。そんなこんなで,イライラしたり,悔しい思いをしたりしながら,日々の他の様々なことと折り合いをつけつつ地味に続けている。

結果として,図鑑にいるポケモンの数は徐々に増えてきた。本日現在,115/149種類を手に入れている。純粋に嬉しい。まさか「ポケモンGO」で長期間続けることのメリットを感じるとは思わなかったが。

もうひとつプレイしているゲームに「イケメン戦国 時をかける恋」という恋愛シミュレーションゲームがある。私は課金をしないでこれまた地味にプレイしているのだが,これも非常に忍耐力と自制心が試されているゲームである。課金をすることのメリットはいろいろあるのだが,私が最大のメリットだと感じているのは課金することでしか読めない特別ストーリーがあるということだ。「もっと甘いストーリー」だそうで。好きなキャラについてはとても読みたいのだが,課金はせぬという固い決心のもと,衝動を飼い馴らしている。

楽しむために始めたゲームだが,それ以外の使いみちもありそうだ。

2016/12/11

ブログを毎日書くために

ちょっといろいろあって,今日からブログを毎日更新することに決めた。とりあえず3ヵ月間,毎日更新を死守するつもりでいる。今これを書いている私の頭の中では,「え,ほんとにやるの?」「あんたほんとにできるの?」という声ばかりがこだましている。というか,それが私の本音だと思う。そういう状況の中,今まで何かをやろうとしたことはほとんどない。でもとりあえずがんばってみようと思う。今までの経験上,気負い過ぎるとダメになるので,気軽な気持ちで,でも適当にはせずに。とにかくやってみようと思う。

毎日ブログを更新するということは,当たり前のことだが,毎日何かを書くということである。そのためには挫折の要因になるような問題をできるだけ取り除いておかなければならない。今思いつくのは,「え,何書くの?」問題と「え,いつ書くの?」問題である。

まず,「え,何書くの?」問題について。このブログは一応,2014年8月の開設当初から日々の生活で感じたことや考えたこと,学んだことを書くということで運営している。この方針,開設時に特にこれといって書きたいテーマがあったわけでもなかったのでなんとなくそう決めたのだが,今改めて考えてみると,自由度がとても高い。私は自由度が高いとかえってやりづらいと感じるタイプの人間だ,と自分のことを感じている。しかし,日々生活する中で何かしら,たとえ小さなことであっても,感じたり考えたり学んだりしていることは確かだと思う。なら,書けること(ネタ)はいろいろあるはずだ。ということで,今後も今の方針を踏襲し,日々感じたこと,考えたこと,学んだことを書いていこうと思う。書けることはいろいろあっても,それをブログに文章という形で落とし込む,となると一気にハードルが上がるように思える。実際,ブログを開設した当初~ちょっと前までは,ちゃんとしたものを書かなくちゃとか,人に見られているんだ,という見えないプレッシャーを感じてなかなか書きづらく,かなり窮屈な思いを抱えながらなんとか記事としてまとめ,アップしていたものだ。とりあえず最低月1回は更新したいという気持ちもあったので,それに背中を押されてなんとか書いていたところもある。今だって,ブログを書くという行為は私にとっては自然にできることではない。でも,少しだけ前よりハードルが下がったような気がしている。書くときの窮屈さが少しとれて,前よりも記事を書きやすくなった。だから,その変化をばねに書き続けてみようと思う。

次に,「え,いつ書くの?」問題である。これまでの経験からいえば,私はブログの記事を1つ書くのに1時間以上,考えがまとまらないときには数時間を要している。現行の毎日のスケジュールでは毎日そんなに時間を割くことはできない。というわけで,現行の毎日のスケジュールを変えつつ,ブログを短時間で書くにはどうすべきかを考えなくてはならない。とりあえず,明日からブログは朝取り掛かろうと思っている。なぜなら,習慣化するためには,毎日固定でこの時間はこれをする,としたほうがやりやすいからである。とすると,私が毎日固定で自由に使える時間帯は朝学校などに出かける前と,夜家に帰ってきてからしかない。夜はそんなに早く帰ってこないし,基本疲れているし,眠くなるし,お酒飲んだりもあるだろうしで,挫折するための潜在的要因が多すぎる。朝にも起きられないというリスクはありそうだが,たとえ寝坊したとしても,その日はまだ昼と夜があるわけで,朝の失敗を埋め合わせることは可能だと思われる。とはいえ,早寝して,朝に書くようにしよう。そして,書き上げる時間の目標は30分~1時間とする。そんなに早く起きられないし,出かけなきゃいけないのにそんなにちんたら書いている余裕はないからである。では,短時間で記事を書くためにどうするか。単純に書く量を減らせばよいだろう。つまり,無理に記事を長くすることはない。それから今思いつくのは,常に考えていなさい,ということだろうか。先程も述べたように,記事になりうるようなネタはいろいろあるはずなので,感じたことや考えたことが流れていってしまう前に,それについて考えをすすめたりまとめたり,ということを意識的にやるようにしていく,それを心がけていけば早く書けるようになるんではないだろうか。言うは易し,行うは難しだが。時間についても,この心がけについても最初は難しいかもしれないが,徐々にできるようになれたらと思う。

ということで,1日目を終えようと思う。このやり方がうまく機能しない場合は,他のやり方を考えるまでである。

2016/11/17

読書記 デーヴァ・ソベル「経度への挑戦」

世界地図を見ると必ず表示されている緯線と経線。経線が定まるまでにこんな激しい攻防があったとは!経度をめぐる人々の努力,思惑,争いを描いた「経度への挑戦」(http://amzn.asia/1bGhwYJ)は,ハラハラしながら読める面白い本だった。

時を決める「経度」は現代の私たちにはなくてはならない存在だ。経度が必要なのは今の私たちに限った話ではない。18世紀頃、領土を拡大するための戦争や貿易で,富を得ようと多数の船を出航させていたヨーロッパ諸国も経度を必要としていた。その当時,航海のお供は羅針盤と海図だったが,それだけでは不十分だったからだ。正確な経度が測定できないことで多くの船が難破し,多数の犠牲者と多大な損失を被っていた。英国議会はこの状況をなんとか打破したかった。そこで1714年,実用的で誤差がほとんど生じない経度測定法の考案者に賞金2万ポンド(現在の数百万ドル)を与える法律を制定する。
まず正確な経度の測定に乗り出したのは,天文学者たちである。月や星、太陽の動きや位置関係を利用して船の位置を知ることが主流だった当時,正確な星図の作成は正確な経度測定の第一歩と考えられていた。天文学者たちは天文台を創設し,天体観測データの収集に力を入れた。その頃一方では,独学で時計製作を修めた貧しい出自のジョン・ハリソンが,独自の工夫を凝らした当時最高級クラスの高精度時計を完成させていた。ここから時計と天文学の戦いが幕を開けるのだ。
ハリソンは,その生涯で5つの航海用時計を経度測定評議会に提出している。経度測定評議会は賞金の支払いを決める機関である。大きさ,精度ともに自信作の4つめの時計を提出した頃,評議会では天文学者のマスケリンが力を持っていた。天体による経度測定法の確立に邁進し,賞金獲得を意識していた彼は,ハリソンの時計の最終評価を遅らせたり,経度法を改正したり,無理難題を要求したりして天文学の優位性を主張,両者の攻防は激化する。ちなみに,現在知られている経度の基準線(グリニッジ子午線)はマスケリンが決めたものである。
ハリソンは最終的に国王の後ろ盾を得て,評議会から2万ポンドに満たない金を獲得した。その後海上時計は爆発的に普及,時計職人は大量生産と低価格化に迫られることとなった。一方で天文学は,時計による経度測定の補佐役として船上で生き残った。

こういう人間臭さを感じる話は好きだ。世界を揺るがすような出来事の裏側には,努力や才能といったきれいな話だけではなく,争いや嫉妬もあふれている。
時計も天文学もこの時代に著しく発展した。その功績は現代の技術や理論にも見られ,今の私たちの生活にも関わり続けている。

2016/11/14

第九コンサートに行ってきた

ベートーヴェンの「第九」は,好きなクラシック曲の1つである。私は毎年末,テレビで流れる第九コンサートを見ているのだが,今年はコンサートホールで生の演奏を聴く機会をもらった!第九を生で聴けるなんて,とても嬉しい。テレビだとよく聴こえない音も拾えるし,何よりも演奏の空気を直に感じられるのがいい。


第九を聴くたびに私は,ベートーヴェンはこの曲を作るときにどんなことを感じたり考えたりしていたんだろうと思う。最初から熱く,激しく,最後の合唱では光や希望も湧いてくるような印象で,ベートーヴェンの中でふつふつ沸いていた何かが昇華されていったようにも受け取れる。本で読んだり映画で観たりするベートーヴェンの人生は, 苦労づくしだ。特に難聴なんて,音楽をやる人間にとっては地獄の中の地獄にいるようなものだと思う。そんな状況の中で第九は作られているけれども,ずっと聞いていると自分のすべてをぶつけているという凄みと真剣さみたいなのがひりひり伝わってきて,ものすごく心を動かされるし,あてられそうになる。

そんなわけですごくよかった第九コンサートだが,曲に加えて指揮者がすごく素敵だった。小柄な女性だったのだが,身体をフルに使った指揮で動きがとてもダイナミック,会場が揺れるんじゃないかと感じたくらいだ。そして,彼女の指揮にオーケストラが反応し演奏を変化させているのもよく伝わってきた。特に第四楽章終盤のスピード調整はすごいと思った。他の曲を指揮する姿も見てみたい。

第九からも,女性指揮者の仕事ぶりからも力をもらえたコンサートだった。

2016/11/12

格安SIMスマホ

格安SIMのスマホを使い始めてから,半年ちょっと経った。格安SIMにする前は10年以上docomoを使い続けていた。でも,月々の料金の高さ(だいたいの月々の平均:7500円)にいい加減我慢ならなくなり,もうやめようと思った。ちょうど2年縛りがなくなるのが今年の春くらいだったから,それに合わせて格安SIMに切り替えようと,昨年末くらいから情報収集を始めたのだ。いくつかの会社を比較検討してIIJMIOに落ち着いた。切り替えにも余計な料金がかからずスムーズに行えたし,料金面,通信面ともに満足していて,変えてよかったと思っている。不満なところはない。端末は,ASUSのZenfone 2 Laserを使っているが,こちらも特に不具合なく,使いやすい。あえて不満を挙げるなら,プリインストールのアプリが意外と多くて,アンインストールするのに手間がかかったことくらい。

最近私の友人の1人から,格安SIMスマホにしたという話を聞いた。それで,今どれくらいの人が格安SIMを使っているのか気になって,ちょっとググってみたら,MMD研究所の調査データが出てきた(https://mmdlabo.jp/investigation/detail_1608.html)。データによれば,格安SIMの利用率は約15%で,音声プラン+データプランの利用率は約54%,楽天モバイルが優勢のようだ。これだけでは,具体的にどういう人が格安SIMを使っているのか見えてこないが,利用率の数値上は,前回調査時よりも若干増えている(https://mmdlabo.jp/investigation/detail_1538.html)。

とはいえ,大半の人は大手キャリアを使っている。私は安さがまず優先なので,自分のそれまでのスマホの使い方や,他のサービスとの組み合わせなどを考慮しても大手キャリアを使い続けるメリットはなかった。大手キャリアを使う理由って?と思っていた矢先,父のことが浮かんできた。私が格安SIMにするときに,父もdocomoから格安SIMスマホに変えたのだが,私が見る限り,父は格安SIMスマホに関して,私ほどメリットを感じていないようだ。というのも,docomoユーザーだったとき父は,携帯で困ったことがあるとよくdocomoショップに行っていた。私も付き合って何度か行ったことがあるが,docomoショップ店員の対応はとても気持ちがよい。嫌な思いをしたことは一度もないし,問い合わせの電話窓口の人もきれいな言葉遣いで親切・丁寧に対応してくれる。今契約しているIIJMIOは,大手キャリアのように独自の店舗を持たないので,父的には相談窓口がなくて困っているようだった。もちろん電話やHPからの問い合わせは受け付けているし,HPの「よくあるお問合せ」もよくまとまっているが,父にとってはハードルが高いようでそのしわ寄せは全部私にふっかかっている。そんな父の様子を見ている母は,docomoから変えるつもりはないと言い張っている。うちの親の場合,そのサービスや親しみやすさ,楽さにお金を払う価値を見出しているのだろう。

何に価値を置くか―選択の際の最重要の問いである。

2016/11/10

漫画展に行ってきた

東京,日比谷図書文化館で開催されている「江戸からたどるマンガの旅 鳥羽絵 ポンチ 漫画」展に行ってきた(http://hibiyal.jp/hibiya/museum/edo-manga2016.html)。江戸中期~昭和初期くらいの間に世に出された,漫画や庶民に親しまれた絵を多数展示している。


江戸時代に描かれた戯画は見ていて飽きない。動きを大きく描く手法で描かれた庶民の何気ない生活の絵を見ていると私まで元気になるし,おっちょこちょいな人間やおとぼけな人間が描かれた絵は,つっこみどころ満載で思わずクスッと笑ってしまう。「遊び絵」と呼ばれるジャンルの絵は,アイディアがいい!たくさんの人を組み合わせて,一人の顔を描いたり,人がどうポーズして影絵を作っているかを描いていたり,文字を形を生かして何らかの絵を描いたり。影絵の絵は,影絵自体はとても美しいのに,それを作るためにポーズしている人がおかしな感じで,そのギャップがまたよかった。

江戸の戯画では,吹き出しも描かれているんだけど,現代のものとはけっこう違っている。まず吹き出しの中身が多い。絵にしろ,文字にしろ,1つの吹き出しにたくさん書いてある。それから,吹き出しが人の胸から出ていたり,口にくっついて出ていたりする。江戸時代の文字が読めたら,吹き出しに書かれていることもちゃんと読み取れたのに!と思うと,少し残念だったが,解説されていた吹き出しの中身を読む限り,今の私たちと考えていることはそうそう変わらないようだ。なんだか親近感がわくし,あんまり進歩してないんだなーとも感じる。

江戸時代の絵には,人以外にも,動物や妖怪の類がよく登場していた。鬼や天狗,化かし狐,なまず(地震と関連して)などが,人と一緒に話していたり戦っていたりする。動物や妖怪たちは当時,今よりもっと人にとって身近な存在で,日常生活のあらゆるところに彼らの存在を垣間見ていたのかもしれない。

明治時代以降は雑誌や新聞が登場し,それらのメディアで大衆向けの絵や漫画が発表されるようになる。そして,外国の大衆メディアに影響を受けた人たちによる風刺画や漫画も登場するようになる。現代の漫画にストーリーは欠かせないが,絵と文字を使ってストーリーを表現するようになるのも,このころからのようだ。妻の尻にしかれる旦那の日常を描いたものや,少年の冒険談,無職中年男性の日常など,いくつかの作品を読むことができた。

今回の展示会では,当時の普通の人たちの生活を知れたり,彼らが普通に楽しんでいたことを共有できたりして,とても面白かった。最近よく一般人を出演させるテレビ番組を見かけるが,そういうのを見たときに感じる,新鮮さや面白さ,驚きと近いものがある。巷にあふれる偉人の話や大きな出来事もインパクトがあって面白いが,庶民のなにげない日常や暮らしもそれぞれに味があって面白い。

2016/11/05

Rashida Jonesのスピーチ

友人にすすめられ,ハーバード大学の卒業生に向けた,Rashida Jonesのスピーチを見た。


美しい英語で,ジョーク満載で,躍動感たっぷりのスピーチ。親しみやすい雰囲気が漂うスピーチの中で彼女が言っていることは,今の私には重たい。私がこのスピーチを,それこそ大学を卒業したてだった22歳のときに聞いたら,「何言ってんだろう~」で特に気にも留めず終わってしまっていただろうが,あれから10年弱の時を経て,経験が増えた今では,実感をともなってこの話を聞くことができるから,その分身に迫ってくる。人生のできるだけ早い時にこの話を真摯に受け止めることができたら,幸いなことだ。

スピーチの中で,いちばん私に迫り,また,エールとして聞こえてきたのは"don't count on the system"(システムにたよるな)。22歳のときの私はちゃんと,「大きな病気けが,事故さえなけりゃ,人生そこそこ安泰で暮らせるでしょうシステム」に乗っかっていたのに,それを捨てた。その後は生きているだけでそのシステムに戻るための不利な条件が増えている。あぁ,システムに戻りたい!と思うこともしばしば。というかむしろ振り返れば,戻るためにいろいろなことをやってきた。でも,システムはそう簡単に落伍者を受け入れない。これはすでに実感済み。それに,たとえ戻れたとして,私はそこでの生活に満足して生きるのだろうか。きっとまた,不平・不満を言いながら生活していくんだろう。そもそもそれでシステムから抜けたのに。それなら戻ることより,自分でシステムを作るためにいろいろ試行錯誤したらいい。シンプルな考えだ。私にはまだ使えるものがたくさんある。だからがんばりたい。

2016/10/29

イニシエーションと新卒研修

イニシエーションとは,特定の集団や社会でその正式な成員として承認するための儀式のことである(明鏡国語辞典より)。先日大学で,クラスメイトと先生と一緒に,私が社会人生活で経験したことを話していたときのこと,新卒で入社した某旅行会社の新入社員研修は,イニシエーション的なものだったのだと思った。

私は2008年4月に,新卒で旅行会社に入社した。私が入社した代では,新入社員研修が入社前と入社後,両方あった。入社前の研修は,その年の2月~3月(大学は春休み期間)に,都内にある研修施設を借りて,たしか3泊4日で行われ,入社後の研修はたしか,4月~5月にかけて本社内で行われた。イニシエーション的な役割があったと思ったのは,入社前の研修である。

私は入社前の研修で良い思い出がない。研修中,その会社で働きたいという気持ちは完全に萎えたし,あのような研修はもう二度と経験したくない。研修では主に,その研修までに覚えて来いと言われていた旅行関連知識の確認テスト,グループごとに旅行に関わる何かを企画して最終日に発表するというグループワーク(グループは会社が決める),早朝マラソンが行われた。研修しょっぱなからビビったことは,自分が向かっている部屋からたくさんの怒鳴り声と大きな声のあいさつが聞こえてきたことだ。要は,あいさつをきちんとしないと,研修担当の社員に怒鳴られるのである。ちなみに,きちんとというのは,私が理解する限り,声を張り上げてあいさつをすることである。部屋の中では,そのあいさつ洗礼を済ませた他の新入社員がしんとして椅子に座っていた。私はといえば,緊張と恐怖に支配されてしまい,とりあえず大きな声を出さねば,という思いであいさつし,1~2回やり直しさせられて入室を許可された。ここは軍隊なのか?と思った。そのあともなんだか不穏な空気が部屋に漂い続けた。というのも,ビビりっぱなしの新入社員に加えて,人事部のみなさんの新入社員への対応が最終日になるまで極端なほどに感情的かつ批判的だったからだ。人事部のみなさんは,私たちがあいさつがろくにできないことを叱り,嘆いた。確認テストをすれば,得点が低い新入社員はその場で名前を読み上げられて,立たされた。初日のテスト後は9割近くの新入社員が立つはめになったのだが,そのあとの説教では,すごい剣幕で私たちをまた叱り,嘆いた。人事部の女性が1人,私たちに説教しながら泣き出したのには心底びっくりした。そんな感じで研修合宿中はことあるごとに叱られ,嘆かれ,新入社員たちは緊張と恐怖と自責の中で,社員からやれと言われたことをこなすために努力することとなった。テスト勉強にグループワーク,徹夜した者も多い。そして最終日,解散となる前の全体の集まりのとき,人事部のみなさんの態度は180度変わっていた。優しい言葉にあふれ,ねぎらいモードであった。おそらくこちらが通常運転の彼らなのだと思うが,「みんなよくがんばったね」といった感じで接してくるものだから,感極まって泣く新入社員が続出である。「私たちはがんばったんだ,乗り越えたんだ」といく空気が漂い,私もいつのまにか泣いていた。

以前,友人の1人にこの話をしたら,「そういう研修あるんだよね」と言われた。人事部のみなさんの私たちへの態度が演技がかっていたのも,きっとそのシナリオどおりにやろうとしていたからなのだろう。しかし,実際に研修に参加していた当時の私はそんなことに気づくこともなく,初めての経験にただただ圧倒されてしまい,完全に会社の思惑通りに動くことになったけれども。

今改めて振り返ると,あの研修は,大学生から社会人になるためのイニシエーションだったのだろうと思う。社会人経験をした今ならなんとなく分かる,多くの大学生は生ぬるい。私もそうであった。そんな大学生を使える社会人にするために,非日常的な経験や,感動体験をさせてインパクトを与える。それで大学時代の自分と決別させ,社会人として生きること,その会社で働くことを覚悟させる,そんな意味があったのかもしれない。新卒社員研修は会社によっていろいろのようで,聞いた話によれば,研修でバンジージャンプをさせるところもあるというのだから驚きだ。

ただ,あの研修は私には合わなかったみたいだ。私にはあの研修で,社会人としての覚悟も,あの会社で働く覚悟もできなかった。感動体験をしたものの,一過性のものだったようだ。結局私は,数ヶ月後にそこの会社を去った。

2016/10/20

逆さめがね体験

世の中には,逆さめがねというものがあるらしい。この逆さめがね(正式名称はおそらく違うが),何が逆さなのかというと,このめがねをかけて見る世界が実際の世界と逆さまなのである。上下反転タイプと,左右反転タイプの2種類あって,前者をかけると上下が逆さまになった世界を,後者をかけると左右逆さまの世界を味わえる。

かけるとこんな感じ
さて,実際にめがねをかけるとこんな感じになる。めがねはけっこう大きくて重い。でも見た目はちょっと近未来っぽい感じがしなくもないか?どんな感じに見えるのかとわくわくしながらレンズに映った像を見てみると,「なんじゃこりゃー」というのが率直な感想だった。さっきまで見ていたものが,さっきとは違うところに見える。左右反転は,まだ納得できる世界。でも,上下反転となると,だんだん気持ち悪くなってくる…ちゃんと見えるようにレンズを調整しようと顔を動かしたりレンズを動かしたりするも,一向におかしさは消えない。で,やっと気づいたことは,いつもの調子で動かしてもダメじゃん!ということ。全部逆さまだから,感覚がつかめない!とりあえず,どこを見ても反転しているから,少し慣れるまで頭の中は混乱状態だった。

めがねをかけながらやってみたことは,自分の名前を書くことだ。当たり前の話だが,めがねを通して見える正しい字は,めがねを外したときに見える字と反転している。だから,めがねを通して見た字が正しくきれいに書けていたら,実際は,きれいに上下または左右が反転しているということになる。私は見事にこれをやってのけ,美しい反転文字を書いてしまった。自分が書いたものを見て書くことを頼りにすると,正しい向きの文字を書くのがひどく難しくなる。どうしても目から入ってくる情報に引きずられるからだ。だから,視覚を頼りにせずに ,自分の腕が正しい字を書くように動いているかに注意を向け,腕の動きを微調整しつつ書いていくと,正確な向きで早く字を書けるようになる。

結局私は10分くらいしか体験しなかったが,その授業を担当している先生の知人で,反転めがねをつけながら一定期間過ごした人がいるらしい。反転した世界を見ながら街中を歩くとか,電車に乗るとか,想像しただけでちょっと怖い。先生の話によれば,かけはじめたの頃はやはり大変だったようだが,徐々にその世界に慣れ,適応し,日常生活を送れるようになったとのこと。

人間はあらゆる情報を感覚器官で受け取って処理しながら生きているが,視覚情報の影響力は強い。人間の運動は,外部から受け取った情報をもとにしてなされ,視覚―運動で協応関係ができあがっている。逆さめがねをかけると,視覚情報がいつものものと全く別物になるので,それまでの視覚―運動の協応関係は崩れることになる。しかし,反転した世界もしばらくすると慣れてくる。その間,トライ&フィードバックを繰り返しつつ,視覚―運動の協応関係が再構築される。だから日常生活が送れるようになるのだろう。恐るべし,人間の適応力!

2016/10/18

エッセイライティング

英語でエッセイを書くのは,長いことかなりの重荷だった。数年前,英検1級取得とTOEFLでの高得点を目指して始めたエッセイライティング,なんとしてでも時間内にしっかりとしたエッセイを書き上げたかったのだけど,書くのに時間はかかるわ,内容は薄いわでイライラしていた。とにかく練習しなきゃと思って,エッセイの書き方の本とか英語の表現集とかも買ってみた。でもどう勉強したらいいかもよくわからず,結局続かなくて,そのまま勉強がおざなりになってしまった。でもその過程で1つ気づいたことがあった。私がちゃんとしたエッセイを書けなかったのは,英語での表現力とか,エッセイの形式に慣れていないなどの英語マター以前の問題だったのだ。つまり,何を書いたらいいか分からない,内容を練ることができていない,などの日本語で十分やれるところが問題だったのである。(エッセイは,introduction, body, conclusionという構成で作る。introductionで自らの主張の概要を書き,bodyではその主張の理由づけや詳細説明を書く。conclusionでは,introductionでの主張をパラフレーズすればよい。私はbodyを書くことができなかった。)それに気づいてからというもの,苦手意識はますます強くなり,結局英検でもTOEFLでも,ライティングはあまり得点できなかった。テストが終わってからはすっかり放置していたので,しばらくエッセイライティングをすることもなかった。

大学では,英作文の授業が開講されている。中途半端になっていたライティング,この機会にどうにかしようと思って履修してみることにした。そして,数年ぶりにエッセイを書いてみた。数年前からの苦手意識を引きずったまま授業に臨み,与えられたお題について書き始めたわけだが,書いてみるとどうだろう,数年前より明らかにスムーズに書くことができていた。もちろん,エッセイの書き方は,イギリス人の先生からレクチャーされていたわけだけど,どういうわけか,あんなに昔悩んでいたbodyの部分がけっこうすんなり進んだのである。当時の私と今の私,何が一体違うのか。人生経験も積んだし,英語力も上がった。でもそれだけじゃなくて。当時の私は正しいこと,ちゃんとしたことを書こうとしすぎていたのではないのだろうか。おかしな理由づけだと言われないように…,その理由,穴だらけと言われないように…,しっかりしたものを書かなくちゃ…,などと気負い過ぎていたような気がする。私にはもともとそういうきらいがあるうえに,ライティングの本に載っているサンプルがあまりにも優等生な回答だったからなおさらビビっていたのだと思う。だから,そのお題について一般的に言われているようなことを書きがちになっていた。でもそれは自分の経験から生まれてきたものではないから,文章が続かなかったのだろう。

授業での私は,昔あれほど気にしていたことをさして気にすることなく,自分の経験と知識から自分の意見と主張を書いていた。案外するすると出てくるもので,自分でもけっこうびっくりした。あれ,私エッセイ苦手だったんじゃなかったっけ?と。先生はエッセイに「正しい答えはない」と言っていた。それはつまり,何を書いてもいいということ。自分の主張とその主張を持つにいたった経緯(そう主張する理由)が丁寧に書かれていたら,それでOKなのだ。もう少し練習したら,エッセイへの恐怖心はほぼなくなることだろう。

2016/10/17

置いてきたもの

10/9に放送された「真田丸」を見ていた時のこと、きり(長澤まさみ)が、信繁(境雅人)に向かって放った言葉が、いたく心に響いた。

”あたしが大好きだった源二郎様はどこへ行ったの?がむしゃらで,むこうみずで,やんちゃで,賢くて明るくて,度胸があって,キラキラしていた。真田家の次男坊はどこへ行ったのよ!あたしが胸を焦がして大阪までついていった,あのときの源二郎様は。”

放送されていたのをそのまま書き取ったので、文字の使い方が脚本とは違っているかもしれないが、そこは目をつむってほしい。この言葉は、先に起こる豊臣VS徳川の戦いで、豊臣側として戦ってほしいと昔の仲間に頼まれた信繁が、自分はどうするべきか、どうしたいのか、もんもんと悩んでいたときに発せられた言葉だ。

実際このシーンは、録画したのを巻き戻して何度か見た。それで、なんでそんなに心に響いたのかを考えていた。単に物語の2人に感情移入したのか、信繁の、将来に悩む姿に共感したのか、きりの信繁への気持ちを感じ取ったのか…。いろいろ思いめぐらせて出たのは、きりが持っていた、好きな人に向かうまっすぐな好きという気持ちだと思った。なんというか、まぶしいと感じた。近頃の私はこんな気持ちになったことがあったかな、とつい自分のことを考えて、そういう気持ちを私自身どこかに置いてきてしまったように感じた。

人を好きになるというのは、本来はすごくシンプルなことのように思う。その人に出会って、その人がする何かに強く惹かれて、あこがれて、その人に近づきたいと思ってみたいな、動きや温度のあるダイナミックなものなんだと思う。ダイナミックな気持ちのありようを感じたり、それに身を任せたり。最近の私はそれよりも、人を好きになるのに理屈をこねている気がする。私の好きな人はこういう人!とか、気持ちの揺れを感じる前に学歴や職業を真っ先に気にしてしまったりとか、その人を好きな自分を人はどう思うのかを考えてしまったり。そりゃ大人になればそうなるよね、とも思う。経験を積めば、学習すれば、そうはいっても実際は…とかいう大人の事情みたいなことも出てくるし、気持ちの折り合いも上手につけられるようになる。でも、気持ちを重視して動けない、気持ちをせき止めてしまっている、そういう自分の側面に悲しさを感じもする。

2016/10/11

本レビュー ケリー・マクゴニガル「スタンフォードの自分を変える教室」

ケリー・マクゴニガル「スタンフォードの自分を変える教室」(https://www.amazon.co.jp/dp/4479305580)を読んだ。読んでいてはっとしたことをまとめておきたい。

①どうにでもなれ効果
何かを自制中の人は,一度失敗したり,誘惑に負けたりすると,さらに失敗するような行動をとったり,それ以上自制することをやめてしまったりするらしい。このことは例えば,ダイエット中の人が,ダイエットに少しつまづいただけでひどく落ち込み,ダイエットをあきらめて,たくさん食べてしまう,という現象に表れている。なぜこんなことが起こるのかといえば,一度の失敗体験によって,自分の中にネガティブな感情が生まれるから。失敗した自分に,自己嫌悪,恥,後ろめたさ,失望したりする。そのネガティブな感情を解消するには何か気晴らしが必要だ。じゃあ,どうやって気晴らしするか。そこで落ち込む原因となったそのものを利用しようとするのである。でもこの気晴らし方法では,気晴らしの後気分が晴れるどころか,また誘惑に負けてしまったと,余計に落ち込むことになってしまう。
では,どんな気晴らしをするのがいいのか。その答えは自分をなぐさめることである。実際実験で,ダイエット中にも関わらずドーナツを食べてしまった女性に,「あまり自分に厳しくしないように,誰でもときには自分を甘やかすことがある」などと慰めの言葉をかけたら,何も言葉をかけなかった女性よりもその後に食べるお菓子の量が減っていた,という結果が出ている。自分に厳しくするのではなく,自分を思いやり優しくすること,これがモチベーションや自制心を高めるのに役立つとのことである。

②将来の自分をつねに過大評価
人は未来の自分を過大評価するらしい。今の自分にできなくても,未来の自分なら出来るはず,いるもそう考えている。だから,今できないことは未来の自分へパス!しかし現実は,未来の自分も同じ自分。未来の自分もそのまた未来への自分にできないことをパスして,結局どんどん問題は先送りされることとなる。
では,このパス回し現象をどう解決するか。今の自分と将来の自分をつなげること答えである。将来の自分を具体的かつ現実的にイメージし,それは今の自分の延長線上にあるととらえ,今の自分の尻をたたく。

③欲求を受け入れる
何かを禁止すると,逆にそれをしたくてたまらなくなる。何かをしないようにすると,そのことが頭にこびりついて離れない。そんな経験はよくあるだろう。であれば,禁止は逆効果になるのでするべきではない。その代わりまずは,したいと感じている気持ちを十分に素直に受け入れる。そのうえで自分の本来の目標を再確認したり,本来の目標を達成するためにしてはいけないことではなく,したらいいことを考える。

以上3つが,この本を読んでいて「なるほどなー」と思ったことである。特に②将来の自分をつねに過大評価,は耳が痛い。どうしてだか,今の自分をさしおいた,未来の自分への根拠なき自信が存在している。私,落ち着け,冷静になれ。
この本全体を通して感じたのは,自分が望む自分になりたいのなら,自分の思考や行動に常に注意を向け,ときおり立ち止まり,どこに向かっているのかを自分で確認することが必要だということである。これだけ読むとなんとも当たり前のことを言っているように思えるが,やるのは難しい。私たちの脳は基本,負担のかかることを好まない。惰性バンザイ,習慣バンザイなのだから。想像してみる。そんな脳のネイチャーに,同じ脳内のはじっこで肩身のせまい思いをしている打倒惰性!打倒習慣!が闘いを挑む。私の中の反乱軍よ,勝利を信じて進んでいこう。

2016/10/10

本を読むこと

先日,オンライン英会話で,読書と長生きの関係について書かれた記事を扱った(”Read Books, Live Longer?” http://well.blogs.nytimes.com/2016/08/03/read-books-live-longer/?_r=0)。記事によれば,50歳以上の3635人を12年間にわたって調査したところ,1週間に3.5時間以上本を読む人は23%,3.5時間未満の時間本を読む人は17%,全く読まない人に比べて死ぬ可能性が低いとのこと。平均すると,本を読む人は全く読まない人に比べて2年ほど長く生きていたらしい。また,新聞や定期刊行物を読む場合は,本を読む場合よりも関連が弱いようだ。もう少し詳しい内容を,と思って記事に貼られていたリンク先にとんでみたが,英語論文なうえに統計の知識がないため,理解できない。ということで,この話について意見するつもりはないのだが,読書についての振り返りと最近感じたことを書きたくなった。

最近私が読んでいる本といえばもっぱら,コミックか,研究に関わる本か,心理学/自己啓発分野の本か,女性が書いたエッセイか,といった感じだ。漫画はもちろん,楽しむために読んでいる。エッセイも,ほぼ娯楽目的と言っていいだろう。とはいえ,結果としてどちらからもいろんなことを学んでいる。コミックからは恋愛関係における人間の気持ちとか,生き方とかを,エッセイからはやはり生き方やその著者の思想,文章の書き方などを学んでいる。研究に関わる本および,心理学/自己啓発分野の本は,娯楽とはほど遠く,何かを知るため,勉強するために読むことが多い。

思い起こせば,私は本好きな子ではなかった。小さい頃,図鑑とか歴史漫画とか多少の本は家にあったものの,ほとんど読んた記憶がない。小説ですら,教科書に載っていたのくらいしか読まなかった。学校の図書館で本を借りた記憶もほとんどない。その代わりといってはなんだが,コミックはよく読んでいた。「るろうに剣心」とか「名探偵コナン」とか,「セーラームーン」とか「快感フレーズ」とか・・・。いろんな漫画をよく読んでいた。私の好きな米原万里氏がエッセイで,子供の頃小説を読むのが楽しみで,親に隠れて読みふけっていた,みたいな話をしていたことがあったが,それは私にとっては漫画を読むときの状況だ。きわどいシーンのある少女漫画(少女漫画はけっこうエロい。最近のはさらにエロさが増しているように思う)を,親に見つからないようにこそこそ読んでいた。私には本好きのいとこがいるのだが,彼女が本屋でけっこうぶ厚い推理小説を彼女の親にねだっていた傍らで,私は新刊発売予定表で発売日をチェックしたり,立ち読み可能な月刊誌の漫画をもっぱら読んでいた。漫画好きなのはその頃から変わっていない。また,米原女史やいとこのように,小説を読んで育ってこなかったからなのか,今でも小説はあまり読まない。

私は本をよく読むから,趣味を聞かれると読書と答えることがある。でもちょっと待って,趣味とは「楽しみ」だったはず。私は本を読んでいて楽しいのかな。そりゃ楽しいと思えるときもあるけれど,最近はだいぶ苦行めいてきている。特に,研究に関わる本や,心理学/自己啓発分野の本を読むのが疲れる。一体どこまで読めばいいのか。気が遠くなりそうである。何を読めばもやもやがスッキリするのかわからないし,知りたいのはそこじゃないんだよな…と思うこともよくあるし,著者が何言っているのかよく分からないことも多いし,読んだはずの内容を忘れている。その度に本をもう一度開き,あぁ,そうだったと思い出すという作業をする。なんだか,本を読んで知識を得ているはずなのに,前に進んでいる感がない。

そんなことを思っていた矢先,皮肉なことに,読んでいた別の本の言葉に救われた。遥洋子氏のエッセイ「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」(https://www.amazon.co.jp/dp/4480420215)の一節である。遥氏は東大の上野千鶴子のゼミで課された大量の文献を読んだ後,余計分からなくなったと上野千鶴子に訴える。すると彼女は,「忘れてしまうような文献はその程度のものです。どんどん忘れなさい,その中で覚えていられるものだけ値打ちがある。・・・」と言うのである。遥氏が一定期間に読んだ文献の量はすさまじい。それに比べたら私が読んだ量は全然たいしたことない。だけど,それでも辛さを感じていた私は,そうか,それでいいのか・・・とふと気持ちが軽くなった。

気負わず,でも手を抜かず,いつかいろんなことがスッキリする日が来ると信じて読み続けたい。

2016/10/07

ポケモンとウォーリー

技術が進歩したことで、子供のころによくやっていた遊びが今、当時とは違う形で体験できる―そんな状況に私もあやかって、スマホゲームの「ポケモンGO」と「Waldo」で遊んでいる。

ポケモンは、私にとっては、これまでの人生の中で最もはまったゲームのひとつかもしれない。ゲームボーイソフトのポケモン緑を中学生くらいのときに買ってもらい、ポケモンたちを集めてまわるのが楽しくて、一日何時間も遊んでいた日が何日もあった。攻略本も読みあさって、どこにどんなポケモンがいるか、どうやったら捕まえられるかを把握して、裏技も試したりして全種類のポケモンを集めようとがんばっていた。で、今はというと、今度はポケモンGOで全種類のポケモンを集めるべく、地道に歩きまわっている。スマホゲームになって、当時よりも大画面になって、色もついて、ポケモンたちの動きもリアルになって、しかもゲーム内のキャラクターサトシがゲーム内の町で探すのではなく、私が私の行動範囲でポケモンを探せるようになった。ポケモンを集める楽しさは年をとった今でも変わらない。

私は小さいころ、「ウォーリーを探せ」(https://www.amazon.co.jp/dp/4577005565)で遊ぶのも大好きだった。ウォーリー本を4冊くらい持っていて、ウォーリーとその仲間たちを探すだけでは飽き足らず、表紙の裏側にたくさんあった「この絵の中に宝箱はいくつあったか」、「○○をもって××している人を探せ」みたいな細かな問題にも手を出していた。で今は、スマホアプリの「Waldo」でウォーリー探しである。スマホゲームになったことで、探すのに制限時間が設けられたり、画面の大きさが小さいせいか、本よりも絵の大きさが小さくなっているけれど、ウォーリー探しはやっぱり楽しい。

このポケモンとウォーリー、その当時使っていたもので今もう一回遊んでみても、当時のように楽しさを感じるのだろうか。残念なことに、ポケモン緑もウォーリー本もどこかにいってしまっているので、実際にやってみることができない。だから想像してみるが、楽しさを確かに感じると思う。そして、懐かしさも強く感じるだろう。でも一過性のもので、長く続けることはないんじゃないかと思う。それはやはり今の私は今の技術に慣れ親しんでいて、それを好んでいるから。スマホバージョンと比較してもの足りなさを感じてしまうだろう。それに加え、今の技術でできることの中には楽しいことがわんさかある。ゲームボーイポケモンとウォーリー本は、そこでの競争に負けてしまうと思う。

技術といえば、今年何かと話題のVR。ヘッドセットをつけて、近いうちにその世界を感じてみたい。VRでウォーリーを探すのも、面白そうである。

2016/10/06

「プラダを着た悪魔」,再び

映画「プラダを着た悪魔」(https://youtu.be/zn456Cq-6_8)を最近観た。この映画を観るのは今回が2回目。最初に観たのはたしか,まだ映画館で上映していたときだったから,10年近く前になる。そのときは,映画の話は自分とは遠い世界のことで,「おしゃれだなー」,「かっこいいなー」などと能天気なほほえましい感想しか抱いていなかったと記憶しているが,今観ると,恰好の自己反省用教材だ。10年前と今との大きな差―働いた経験の有無―がそう思わせているのだろうが,特に,私の仕事への向き合い方は,アン・ハサウェイ演じるアンドレアのそれと比べると,まだまだだ。

アンドレアは仕事にどう向き合っていたのか。それは,その場にいるにふさわしい人間になるための努力をしたことと,相手が欲することをしっかり考えたうえで行動したことによく表れていると思う。記者志望の優秀なアンドレアは,ファッション雑誌編集長ミランダのアシスタント職をなめていた。それでもそれなりに一生懸命やっていた。しかし,一生懸命やっても編集長は一向に認めてくれない。それを同僚にぼやいたときに,「君は努力していない,ぐちを並べているだけ」と言われてしまう。なぜならアンドレアは,ミランダがぐうの音も出ないほど満足することを彼女に与えていなかったからである。そのときからアンドレアは変化していく。自分の意志で,今まで着ていたダサい服からおしゃれな服に着替え,ファッションセンスを磨いていく。また,ミランダから指示されたどんなことも完全的確に処理するだけでなく,そのあとミランダが何を求めるか推測して行動,推測して行動,推測して行動を何度か行い,ミランダが求める以上のことを言われる前にやっていくようになる。私もよく「仕事を一生懸命やっている」と自分で思うし,人にそう言ったりもするのだが,私の一生懸命のレベルって低いな…と。しかも,自分では十分一生懸命やっていると思っているから,それ以上のことをしようという発想も出てこない。相手は,私がしたことにどれくらい満足しているのだろう。

仕事への態度を変えたアンドレアはその後,忙しい毎日をすごく楽しんでいるようで,それがまたとても印象的だった。きっと真摯に向き合い続ければ続けるほど,その世界に深く飛び込んでしまえばしまうほど,新しい考えや他にもできることが生まれてきて,楽しくなっていくものなんだろう。中途半端に一生懸命な私が得たものは,楽さと心地よさ,そしてそこそこの楽しさだ。満足感?それもそこそこの満足感でしかない。中途半端な一生懸命はもうやめ!

2016/10/04

百聞は一見に如かず in 料理

季節ごとに1回のペースで,友人と”おうちで料理しましょう会”を開いている。かしこまった集まりでは全然ないのだが,一応この会には目的があって,それは,その季節の旬の食材を料理して食べることと,1人暮らし社会人の普段の食卓には並ばなそうな料理を作ること。キッチンを提供してくれる料理好きの友人が,毎度毎度オシャレなメニュー(イタリアン)を考えてくれるので,それを持ってみんなで買い出しし,ワインを飲みつつ,つまみを食べつつ,ゆるりと3~4品作る,というのが定番になっている。

9月の初頭,会を開いた。このときのメニューは,豆腐と野菜のサラダ,ヤリイカのカルパッチョ,鶏レバーのソテー,イタリア風ラタテュイユ。トマトやナス,みょうが,とうもろこし,ヤリイカなど,夏~初秋にかけての旬の味がたっぷりつまったちょっと贅沢なメニューだ。全部大満足の味だったが,なかでも初めてお目にかかる鶏レバーのソテーは,ホクホクでとてもおいしくて,食べている間感動しっぱなしだった。

でも,この会の魅力は旬の食材を使った美味しい料理が食べられることだけではない。もう1つの魅力は,料理のテクニックを友人から学べることだ。中心になって料理するのは友人で,私はそれを見ながらお手伝いしていく感じなのだが,実際に料理しているところをを見て,真似て一緒に作っていくのは,レシピ本や料理番組を見て作るよりも,断然わかりやすいし,やりやすいし,楽しい。

今回の会では3つ学んだ。まずは味付けの仕方。さすがイタリアン好き,友人はいろいろなホワイトビネガー,オリーブオイルを試しており,何種類か常備されている。ホワイトビネガーなんて使ったことないよ!?な私に,使い方を示してくれた。どんな食材と合うかとか,使う量とか,他の調味料とのバランスとか。次に,ヤリイカの下処理について。今回初めてイカをさばいた。イカをさばく手順と墨を出さないための方法を見につけた。そして最後に,ナスの焼き方。ナスは私も家でよく焼いたり炒めたりするのだが,これはうまい!と今ひとつ感じられていなかった。友人のやり方を見て気づいたが,どうやら焼き時間とフライパンへのナスの置き方がまずかったようだ。早速自分のやり方を改善した。

次回は初冬の頃に開催したいな。

2016/09/30

電子書籍ライフ

最近は電車に乗ると,必ずと言っていいほどスマホでマンガを読んでいる人を目にするようになった。ネットを開けば,本として出版されているマンガだけでなく,電子版限定のマンガも多々目にするようになり,ネットでマンガを読むのが自然なことになってきているんだなーと感じている。かく言言う私も最近は,紙の本だけでなく電子書籍を読むようになった。新刊のコミックスは,今年に入ってからはすべてアマゾンでダウンロード,電子書籍にすることにかなり抵抗があった活字中心の本も,2冊ほど電子版を購入してみた。それら読み終え,私も電子版は紙の本よりメリットが多いなと感じ始めた。紙よりも電子版のが安いし,場所をとらないのはもちろんだが,電子版のほうが読みやすくて,圧倒的に効率がいい。電子版を読む前は,電子版ってなんか読むの疲れそうだし,本を読んでるって感じしないよな~という偏見を持っていた自分が恥ずかしい。

読みやすさを感じたのは,紙の本のように両手で広げて読む必要がないからだ。私は,雑誌のように本が開いた状態で安定しているタイプの本が好きである。なぜなら腕と手が疲れないし,読みながら別のこともできるから。両手を拘束されずに本が読めるなんて,ストレスフリー!それに,電子書籍のページは,開くと雑誌のように完全に二次元になる。それは本当に読みやすい。紙の本でよくあるような,本を閉じている場所付近に折り癖がついたりカーブになったりで読みづらくなることがないから,それもストレスフリー。薄暗いところでも読むのに支障をきたさないのも読みやすさの1つ。画面が明るいから,周りは暗くても問題ない。

そして,複数のデバイスで電子書籍を読めることがなんといっても効率的。私は,ノートパソコン2台とスマホ1台を持っているが,kindle経由の本はアプリ1つでどれからでも読めるし,データ化されたそれ以外の本も,どこからでもアクセスできるようにしている。私は何かしらのデバイスをいつも持って行動しているから,家で読んでてそのまま本おいてきちゃった!とか,持ってきたこの本は気分的にく読みたくなくなっちゃったけど,家にあるあの本が読みたい!と,惜しい気持ちになることが減っている。効率の良さをもう1つ挙げると,いちいちしおりをはさんだり,どこまで読んだか記憶して,次読むときにそのページまでたどっていく必要がない,ということ。kindleでは読み終わりはネット上で共有されているから,どのデバイスで読んでも,前回読み終わったところにすぐページを移動できるし,ほかの本でもデータをバックグラウンドで開きっぱなしにしていれば,同じこと。

電子書籍は今後も私の手元に増えていくだろうな。

2016/09/29

面白い研究・面白い論文

研究がなかなか思うように進まない。現在「メタ認知」に興味があり,いろいろな文献を読んで情報収集+研究計画づくりをしているのだが,なかなかアイディアが生まれない。先日友人に,「卒業論文面白くなりそう?」と聞かれて,「ならなそう…」と即答してしまった。今の状態からは,今後面白くなりそうな要素がまったく見当たらない。自分の研究,卒業論文,面白いものにしたいな…。ということで,面白い研究・論文ってどんなのがあるか調べてみた。

最初に思い浮かんだのが,イグノーベル賞。ググってみると,つい最近2016年の受賞論文が発表されていた(http://www.gizmodo.jp/2016/09/2016-ig-nobel-prize-winners.html)!なんとバラエティー豊かなトピックス!突拍子もないものから,身近に起こっている出来事を実証するもの,実用的なものまでそろっている。生物学賞の野生動物になりきるとか,文学賞のハエ収集とか,どこに魅力を感じて始めたの!?平和賞のでたらめを人がどう受け取るかの話とか,心理学賞の世代別うそつき能力の話とかは,もろ日常生活のことである。でたらめを言ったり聞いたり,うそを言ったり聞いたり,私も含めて多くの人がしていることだけど,それを具体的な研究に落とし込むまで考えたことないよな…。医学賞の左腕を掻いて右腕のかゆみを抑えるってのは…講義で聞いたことのあるラバーハンド錯覚の応用!?と思った。ラバーハンド錯覚とは,ある手続きを踏むと,目の前に置かれたラバーハンド(手の模型)を自分の手だと錯覚する,という現象なのだが(詳しくはhttps://goo.gl/PfEsUS 動画はこちらhttps://youtu.be/sxwn1w7MJvk?list=PLwHE59lNfxCrnvEY1foLLzQVYQWlA0EsN),左手を鏡で見ながら右手を掻いているように掻くことで,右手が掻かれていると脳が錯覚を起こすのだろう。とはいえ,痒みを止めることに応用できるなんて考えてもみなかった。とりあえず,今度痒くなった時にやってみよう。

面白い研究でもう一つ思い浮かんだのが,サンキュータツオ氏が書いた「ヘンな論文」という本のことhttps://www.amazon.co.jp/dp/4046533412)。彼はヘンな研究論文を収集するのが好きらしく,集めた論文の13本をツッコミ満載で紹介している。一見するとなんでそんなこと調べたの?というものから,私もそれ気になるー!というものまで,こちらのトピックスも本当に様々。どの論文のトピックも著者のツッコミも面白いので,詳細は実際に読んでほしいが,「「浮気男」の頭の中」で紹介されている論文の結果を見ては,あ,最終的に彼らは開き直るんですね…という解せるような解せないよう感覚に陥り,「「なぞかけ」の法則」で紹介されている論文では,なんでそれを面白いと感じるのか,ってことにまで踏み込んでいるではないか…まさに面白い研究・論文について考えるのにダイレクトにつながる情報。「「しりとり」はどこまで続く」で紹介されていた,広辞苑に載っている単語をコンピュータで計算させ,しりとりは最長どのくらい継続させることが可能なのかを明らかにした話とかびっくりだ。「「あくび」はなぜうつる」の章については,あくびってうつるなと私も思ってたよ…と。結局,日常感じるちょっとしたことを,深く掘り下げて考えたり調べたりしていけるかどうかで,研究は生まれるのだろう。ちなみに,相撲取りのマゲを結う人のことを床山と呼ぶことを,床山の生態を調べた論文を紹介していた「現役「床山」アンケート」の章を読んで初めて知りました。

面白い研究・面白い論文について,もっと情報を集めたいので,アンケートを作ってみた。お時間ある方,ぜひ回答をお願いします。
https://jp.surveymonkey.com/r/C7WKN62

2016/09/28

疾患自体がミステリー

ここ最近,「キルミー・ヒールミー」という韓国ドラマを見ている(http://killme-healme.jp/)。解離性同一性障害(多重人格)を患っている男性が,新米女性精神科医のもとで癒され,症状を改善させていくプロセスを描いた話だ。謎解き要素と恋愛要素も盛り込まれていて,ぐいぐい引き込まれる。そして解離性同一性障害の男性を演じるチソン,イケメンなうえに演じ分けがすばらしい。にしても解離性同一性障害,謎である。ドラマの内容よりも疾患自体がミステリーだ。

ドラマを見ててふと感じた一つ目の謎は,交代人格の名前ってどうやって決まったのだろう,ということだ。私には名前がある。でも私の名前は私がつけたものではなく,親が私の意思とは関係なく勝手につけたもの。赤ちゃんの頃からその名前で呼ばれ続け,いつの間にかその名前が私の名前だと認識するようになり,私は私の名前の人物になる。多くの人がこのようなプロセスをたどっているはずだ。では,多重人格に現れる交代人格たちはどうなんだろうか。交代人格は主人格の脳の中で生み出される人格で,主人格の一生のうちのどのタイミングで出てくるかも,どのくらいの頻度で出現するかもバラバラ。だからほかの誰かが名付けたとは考えにくい。さらに,主人格が交代人格の存在を把握しているとも限らないから,主人格が名付けたとも考えにくい。とすると,交代人格が自分で好きな名前を名付けたんだろうか?となる。え,でも名前付けるにも言葉知らなきゃいけないし,名前として使われている名前をつけているから,名前に関する知識があるんだろうか?

そう考えると次の謎が生まれてくる。交代人格と主人格はどのくらい記憶を共有しているのだろう。ドラマの中で交代人格たちは,言葉を話したり車を運転したり,絵を描いたりできる。交代人格たちがそれらの能力を,赤ちゃんがゼロから習得するように習得したとは考えにくいから,多分主人格が持っている手続き記憶を共有しているのだと思う。しかし,ビリー・ミリガン(実在した多重人格者)のように,主人格が習ったことのない言語を使える交代人格もいたりするので,手続き記憶だからといって共有されるとは限らないのだろう。個人の経験(エピソード記憶)に関しても,共有していることとしていないことがあるようだ。ドラマでは,交代人格たちがしていたことを主人格はまったく覚えていないものとして描いていた。そして交代人格たちは,自分がしたことを覚えている。ということは,記憶としては脳のどこかに存在していて,主人格はそれを引っ張り出せないということになるのだろう。でも逆に,交代人格は主人格やほかの交代人格についてよく知っていたりする。「24人のビリー・ミリガン」にもそんな話があった。ということは,どのくらいの記憶を脳から引っ張り出して意識化できるかは,それぞれの人格で違うということになる。じゃあその違いってどうして生まれるんだろう?

さらに,もう一つ。ドラマで登場する交代人格たちは,自分が交代人格であることを認識している。え,それってどういう感覚?なんで交代人格だって分かってるの?というか,どういうプロセスを経て主人格から分離して交代人格へと確立するんだ?

…本当に謎だらけ。


参考資料
ダニエル・キイス「24人のビリー・ミリガン」(https://www.amazon.co.jp/dp/415050430X

2016/09/27

プレゼント選び

久しぶりに会う友人にプレゼントを買いたいなと思った。何を買うのがいいだろう。プレゼントするなら,やっぱり相手に喜んでほしい。でも一体,どういうこと/ものに喜びを感じてくれるんだろう。その友人とご飯を食べに行ったり遊んだりしたときのことを思い出して考えてみた。…答えがまとまらない。そして,「私,この人のこと実はよく知らないのか!」とはたと気づき,相手のことをどれだけ知ってるかでプレゼント選びの難易度って変わるなと思った。

プレゼント選びはお土産も含め,これまでに何度もしたことがある。どんな相手にあげるにしてもいつも大なり小なり悩むのだが,どうにも困ったときは食品を選択肢にすることで対処してきた。特に菓子はそれほど好き嫌いが分かれないし,消費されたらあとに残らない。何をあげたらいいか迷ったときの無難な選択だと思う。でも,食品や菓子では何かもの足りない。ちょっとしたお土産とか,付き合いでのプレゼントにはぴったりだと思うけれど,あげる相手やあげる機会によっては,身に着けるものや使えるものなど,食品以外で考えたい。するとプレゼント選び,なんと難しくなることか。

プレゼント選びを難しくさせているのは,相手が喜んでくれなかったらどうしよう…ということを考えるからなんだと思う。なんでそう考えるのか。もらったプレゼントがどうにも自分の好みとマッチしない,使えないということは私も経験したことがあるが,そのときの「どうしよう,これ…」感は半端ない。たいていは捨てることもできないまま引き出しの奥とかにしまわれ,忘れたころになんかのきっかけで出てくる,みたいな末路をたどる。私があげたプレゼントにそんな末路をたどってほしくないから?とか,相手に残念な感じを感じてほしくないから?とか,それによって自分の評価が下がるの嫌だから?とか,もんもんとした結果,相手が喜んでくれなかったらどうしよう,ということは考えても仕方ないなと思うに至った。どんなに相手のことを思い考えたって,私が思うように相手が動くわけではない。だったら,相手のことをできるだけ知る→その情報から相手が喜ぶ確率の高いものを選択する→プレゼントする,までのプロセスに集中,が最善策。そしてもし相手がプレゼントを喜んでくれたら,「やったー」,そうでもなかったら,相手の好みに関する情報としてストック,するとしよう。

2016/09/26

経験や感覚で掴んでいることを言語化すること

自分が経験や感覚で掴んでいることを言語化するのが難しい,最近仕事をしているとよく感じることだ。

私は個別指導塾で中学・高校生に英語を教えているのだが,担当しているある高3生の生徒は,英語の語句整序問題(提示された語句を並べて正しい英文を作る)ができない。自分でも苦手だということを把握していて,困っている様子。彼はそもそも英語が得意ではなく,問題形式によらず解けない問題がまだ多いのだが,それでもなんとか語句整序問題解けるようにならないものか,と解き方のコツみたいなのを見つけようと試みた。

まずは彼に,語句整序問題をいつもどう解いているか聞いてみた。すると,「提示された語句を見て,熟語になったり,つながりそうなものをまずつなげる。あとは適当にならべる。」との答え。(て,適当に…!?)思わず「おい!」とツッコミたくなるが,やり方が分からなかったら適当に並べるしかないか…,と思い直し,私自身,語句整序問題をいつもどうやって解いているんだっけ?と振り返ってみた。ん!?私の場合,提示された語をじっと見てるといつのまにか並び変わってちゃんとした文作れてることが多くないか!?…振り返った結果そう思ったが,それじゃ何のアドバイスにもならない。ということで,実際に問題を解きながら自分が何をとう考えて,文を作っているのかモニタリングしてみた。

モニタリングした結果,いくつかコツみたいなのが見えてきた。まず彼が話していた,語句同士でつながりそうなものを見つける,というやり方。これは私も実際にやることがあった。熟語の知識があることや前置詞の使い方などを知っていることが前提だが,決して使えない方法ではない。デメリットがあるとすれば,語句同士を正解とは別のつなげ方をしてしまい,それにとらわれて他の語も並べられなくなる,ということくらいか。ほかには,主語と動詞を把握することが挙げられる。英語の文は命令文などの一部を除き,必ず主語と動詞があるから,それを見つけてセットにしておけばいい。日本語文があれば,それをよく読んで見つければいい。日本語文もなく,主語がどれか見分けづらいときには,動詞の形を見て主語を見つける方法もある。あとは,これは日本語文がないと厳しいが,説明されるものを先に持ってきて,説明するための単語をあとにくっつけるということ。関係代名詞を考えると分かりやすいのだが,英語はまず核心となる単語や文を発して,あとに説明を加えてより詳しく説明したり,話を広げたりしていくことが多い。そういえば,英語圏の住所の書き方もこんな感じじゃないか。日本とは逆で,彼らは番地から,町,州やエリア,国へと広げていく。

早速この話を彼に伝えてみた。が,しかし,語句整序問題ができるようになった様子はない…。何が違うんだろう?当たり前だが私は彼よりも英語を勉強している時間が多い。だから,知っている単語の数,熟語の数が多いし,読んだことのある英文の数も断然多い。それで,語句が正しく並べられていない英文を読むとなんとなく違和感を感じるし,こういう意味の句はこの場所には来ないとか,この語がこの語とくっつくことはないとか,日本語でこう来たら英語ではこう書けるとか,経験的に,感覚的に掴んでいたりする。でもそういうのは,どう言葉にして伝えたらいいのだろう。もちろん参考書などで調べて,ルールとして明文化されているものはそれを使って説明するのだけど,見つからないものは,「そういうもんなんだよね…」としか言えず,なんか心苦しい。

「もっと勉強して!」で片付けたくなく,どうしたらいいか模索中である。

2016/09/25

気づけば4年,オンライン英会話

オンライン英会話を始めてから,今月で4年が経った。オンライン英会話始めたのそういえば今頃だったなーと思って登録日を調べたら,2012年の9月17日。2~3ヵ月間休会していたたことが一度あったけれど,それ以外は1日1回ペースでゆるく続けている。もはや生活の一部だ。

オンライン英会話は楽しい。長年続けて,何度も予約している講師と話すのは,勉強というより友達とのおしゃべり感覚になっている。4年前の始めたころは毎回緊張しっぱなしで,相手の言っていることが聞き取れない,聞き取れても返す言葉が浮かんでこない,言いたいことがあっても英語でどうどう言ったらいいか分からない,口ごもったり焦ってとんちんかんなことを言ってしまう,という感じでやるたびにどっと疲れ,みじめな気持ちにもなっていたが,さすがに回数を重ねれば慣れてくるもので。次第に,とりあえずなんでもいいから思ったこと伝えようという開き直り(9割)と,焦らずゆっくり考えてしゃべろうという自己コントロール(余裕があるときの1割)がむくむくと湧き上がり,結果,英語を話すのにほとんど緊張しなくなったし,なじみの講師にはプライベートをダダ漏らし状態である。

4年間でプライベートな話をたくさんしていたのは,同年代の女性講師。今彼女は講師をやめてしまっているが,彼女とのレッスンは,いつもお互いの日常の話だった。彼女は,最近気になる人がいて・・・とか,アートの勉強をしたいとか,洋服屋を始めたとか話し出し,私は私で,また学校行こうと思ってるとか,友達との間に起こったごたごたとか,仕事の愚痴を話しては,互いに共感やアドバイスを得たりしていた。世の中のイケメンの話で盛り上がる女性講師もいる。韓国の俳優とか,スポーツ選手の○○がかっこいいに始まり,こういう人がタイプでとか,こういう人がモテるとか,互いの国の恋愛事情を話している。一方で,私が大学で学んでいることに興味を持つ講師もいる。講義でこんな話を聞いたとか,心理学の理論とか,自分の研究について説明したりすると,それについて質問がとんで来る。自分のしていることに興味を持ってくれるのはやっぱりうれしい。

こんな感じで4年続けてきて思うことは,レッスンを自分でコントロールしないとなー,ということだ。オンライン英会話の環境に慣れすぎてしまった。友達感覚で話せる心地よさはいいけれど,英語話せた!楽しかった!で終わっちゃっては,お金を払うことにあまり意味がなくなる。英語を使うことに抵抗がなくなった今,講師の使う表現や使っているニュースサイトの単語,表現をもっと吸収し,自分の表現にしていきたい。

ちなみに,私が登録しているオンライン英会話は,キーアイというところ(http://www.key-eye.net/)。英語で話す機会を欲していた当時,いくつかのオンライン英会話サイトを比較・検討した結果,ここに行き着いた。決め手は24時間開講制と1回あたりの料金の安さ。24時間空いていれば,レッスンの予定を組みやすい。自分の予定や生活パターンを無理に調整することなくレッスンを予約できるし,生徒の予約が分散するから,土日や朝,夜など混んでいる時間帯にほかの生徒とバッティングして,レッスンが予約できないなんてことも避けられる。だから,定額制でも支払ったお金が無駄になるリスクは少ない。料金はいくつかの定額プランがある。プランの改定があって,始めたころより若干料金が上がったが,許容範囲なので続けている。どの講師に予約を入れるかで異なるのだが,現在の私のレッスン単価は200円(25分間)だ。レッスンの内容は受講者次第。キーアイがいくつかフリーのテキストを持っているのでそれを使って進めることもできるし,ただ単に会話するだけでもいいし,資格試験の対策もやってくれるらしい。私は大体,英語メディアのネット上の記事を音読し,それについて講師と話すという感じで進めている。分からない単語の発音や意味は聞けば教えてくれるし,自分の発した英語にミスがあれば,指摘し,ベターな表現を教えてくれる。

2016/09/24

モーツァルト効果

音楽を事前に聴くと,その後の作業によい影響が及ぶことをモーツァルト効果というらしい。発端はRauscherら(1993)の論文に発表された研究。被験者に,モーツァルトの曲「2台のピアノのためのソナタ」を10分間聴かせたら,リラックス効果のある音を聞かせたグループや何も聞かせなかったグループよりも,その後に解かせた空間的推論課題で好成績を収めたことから,モーツァルト効果と呼ばれるようになったのだとか。ちなみにこの効果は,音楽を聴いて10-15分で消失するとされている。音楽を聴くことが作業パフォーマンスにどんな影響を与えるかの研究はその後もされていて,辛島ら(2012)によれば,作業者がやる気が向上すると期待できる音楽を聴く→作業者のポジティブ感情UP→作業効率や精度が向上というデータが出ており,山下ら(2016)の研究では,作業前に音楽を聴くことが,その後の作業を楽しい,面白い,作業時間を短いと感じさせ,その後の課題成績が上がることを示している。被験者に聴かせる音楽は,辛島ら(2012)では,この曲を聴くとやる気が向上するとして被験者が選曲した曲,山下ら(2016)では,作業遂行に適した曲として被験者が選曲した曲と,実験者が選曲したクラシックの曲とインストゥルメンタルの曲だった。聴かせる時間はどちらも15分間である。

たしかに音楽を聴く→ポジティブ感情UP,というのはよく経験する。例えばテレビを見ていて曲が流れる。アップテンポの曲が流れるとなんとなく楽しい気分になるし,90年代J-POPが流れればカラオケに行きたくなる。最近週1で行っているジムでは,常にJ-POPか洋ROCKが流れていて,それを聞いているとなんかやる気になってくる。でも逆に,音楽を聴く→ネガティブ感情UPというのは,あまり聞いたことがない。曲を聴いていたら悲しい思い出や辛い思い出を思い出しちゃってとか,歌の歌詞が悲しいとかで気分が沈むというのはもちろんあるだろうが,曲を聴いただけでなんとなくポジティブな気分になるように,曲を聴いているだけでなんとなくネガティブな気分になったことはこれまでになかったように思う。高校生のとき,失恋してもっと泣きたいと思って,聴いたら悲しくなりそうな曲をいくつか集めてリピートしていたことがあったが,思った以上に気分は変化せず,泣けなかったことを思い出した・・・。私の感覚では,悲しい旋律の曲を聴いてもたいてい気分は現状維持,もしくはほんの少しネガティブに振れるか?くらいだ。

ところで,ポジティブ感情UPにより,その後の作業によい影響を与えることが辛島ら(2012)や山下ら(2016)の論文で実証されているが,感情以外に,集中力が高まった結果作業パフォーマンスが高まったというのも考えられるんではないだろうか。実験室という日常場面よりも少し緊張する環境で意識的に曲を15分聴くわけだから,音に集中していると考えるのが自然である。で,その状態で,つまり作業にかかる前の段階で集中を喚起された状態で作業を始められるので,それが作業への準備/助走のような役割を果たし,作業への取りかかりもスムーズになり,パフォーマンス自体もが上がるんではないだろうか。実証しないことには憶測にすぎないが。


参考文献
Frances H. Rauscher, Gorden L. Shaw, Katherine N. Ky 「music and spatial task performance」 (https://goo.gl/p13t4C
辛島光彦,西口宏美 「単純繰り返し作業における作業前音楽聴取の有効性に関する研究ー転記作業と心的回転作業を例にー」 (https://goo.gl/IUXmQG
山下利之,渡辺美帆,小俣世菜,大田安彦,北澤伸二,鈴木優太 「BGMの知的作業に対する心理的効果」 (https://goo.gl/fL2hmL

2016/09/23

「女性的なもの」についてごちゃごちゃ

※この文章は,2016年度前期「フランス語圏文化論A」の講義に提出した最終レポートを再編集したものである。

私は今期,「女性的なもの」について考えるという講義をとっていた。講義タイトルは「フランス語圏文化論」で先生は哲学畑の人,ということで,フランス革命前後から現代までのフランスにおいて,「女性的なもの」はどう考えられていたのか,を学んだり,女性について論じたり女性解放への道を示した文献などを読んでいた。
そもそもこの講義を取ろうと思ったきっかけは,私の中で内在化している「女性的なもの」と,それとは遠い姿の自分,その「女性的なもの」にあこがれる一方で,その「女性的なもの」を毛嫌いする自分など,自己と女性像の間でごちゃごちゃが長らく続いていたからである。

数年前から,「こじらせ女子」という言葉をメディアで見かけるようになったが,この言葉の意味を知ったとき,私は共感を覚えた。「こじらせ女子」とは,ライターの雨宮まみ氏のエッセイをきっかけに話題になった言葉で,自分が女であることをこじらせている女性を指す。こじらせているとはいわば,自己に内在するあるべき女性像と,女性としての現在の自己像,そして自分がなりたいと描く女性像の間で葛藤が生じている状態だといえる。なぜ葛藤が生じるか,それは,彼女たちの意識の中には常に,他者/社会が私をどう思うかという他者視点での認知が存在するからである。他者視点での認知は,他者が実際考えていることを反映している場合もあれば,社会に蔓延する固定観念にも近い女性像を反映している場合もあるだろう。しかしそれらは,自分の捉える自己像やなりたいと描く自己像と常に一致するとは限らない。けれど,他者に認められたい,社会での自分の居場所が欲しいという,人が普遍的に抱く欲求も満たしたい。そして,他者視点で自らに内在化している女性像と自己の欲求に折り合いをつけることができなくなる。その結果として,女性として生きることになんらかの困難を感じてしまうのである。

この,自己の中に内在化している女性像は,その女性像が現実離れしていたり,固定化されてしまっている場合,非常に厄介なものになる。偏見を承知のうえで,私が思春期の頃から感じてきた「女性的なもの」を形容すると,小さい,可愛い,きれい,初心,気が利く,優しい,明るい,家事,良妻賢母,ふんわりした,男性を立てる,色気,恥じらう,弱い,といった言葉でまとめることができる。

この私の中に内在化している女性像は,講義を受けて半ば衝撃を受けたのだが,18Cにルソーが著書「エミール」の描いた女性像と大して変わらない。「エミール」においてルソーは,男性と女性の間には,自然がもたらした性に関する差異があるとした。そしてその根幹にあるのは,男性は能動的で強く女性は受動的で弱い,というものである。その差異ゆえ,男女の関係は相互依存的であり,男性の強さに女性が惹かれる,女性は男性の気に入るように生まれつき,その女性の魅力を使って男性にさらなる力を呼び起こさせる,という関係が成り立っているとしている。さらにルソーは,「女性の教育はすべて男性に関連させて考えなければならない」,「男性の気に入り,役に立ち,男性から愛され,尊敬され,男性が幼いときには育て,大きくなれば世話をやき,助言をあたえ,なぐさめ,生活を楽しく快いものにしてやる」ことがあらゆる時代における女性の義務としている。ルソーにとって女性は,常に男性の存在ありきの存在だったようである。実際,このころのフランスで女性に期待されていたことは,妻であり母であることである。女性は,男性との関係や家庭という文脈の中で捉えられ,それが当然のこととして社会に受け入れられていたのである。

フランスでは,このような女性論が蔓延していた一方で,フランス革命期,オランプ・ドゥ・グージュが女性の権利をはっきりと要求する女性の権利宣言を,人権宣言に対応させた表現を使って1792年に発表した。人権宣言は,主に男性に主眼を置いたものだったから,彼女は,女性が男性と同等の権利を有していることを訴え,社会からその権利に基づいた扱いを受けることを求めたのである。そしてそれを公に宣言することで,女性たちに1人の個人として生きることを提唱した。オランプ・ドゥ・グージュ自身は革命政府と対立して処刑されてしまうが,その後も,女性解放の運動は根絶されることなく社会で生き続け,ルソーに通じる男性ありきでの女性と,オランプ・ドゥ・グージュらに通じる,一個人としての主体的な女性を大きな柱としつつも,「女性的なもの」は多様性を帯びて捉えられるようになった。例えば19世紀に書かれた小説には,修道院出身の主婦や自らの性で稼ぐ娼婦,洗濯や造花づくりを生業とする女性などが登場し,描かれている彼女たちの性格もさまざまである。さらに,20世紀後半には,ボーヴォワールが登場する。ボーヴォワールは著書『第二の性』で,ルソーの指摘した女性の本質を否定し,これまで長い間女性に見出されてきた「女性的なもの」は,さまざまな文化装置によって作られたものとした。このころになると,自由・平等を掲げる民主主義に重きを置く時代の風潮は,矛盾に陥るため,女性の要求を無視できなくなってくる。そして,職業の自由や平等,性差別禁止などの制度が成立していくのである。

ここまで述べてきたフランスの近代以降の女性に関する社会的な状況は,日本にも当てはまる部分が多かろう。制度の上では確かに男女平等の社会になったし,自由や多様性が認められる社会にもなった。しかし,小さいころから私の中で養われた「女性的なもの」は,多様な女性像にはほど遠く、「男性に人気のある女性」が持つ特徴のようなものだった。なぜならこれらは、私がこれまでに接してきた,クラスで男子から人気の女子,テレビで見る芸能人やモデル,幸せな恋愛をする少女漫画の主人公,恋愛教本などから得たものだからである。もちろん,偏ったものしか見ていないという指摘はもっともだし、そこから作り上げたイメージなんて偏っているに決まっているだろう,と言われればそれまでだが,このような特徴を持った女性が実際男性に好かれている,という話は,探せばこれでもかというくらいあるだろう。だから,男性に内在する女性に対する一般的なイメージや期待すること,一般的に好ましいと感じられる女性像は,制度上で女性解放がなされた今も,それこそルソーの挙げていた女性像と大きく変化していないのではないかと感じていた。

私は恋愛に興味があるにも関わらず、モテるタイプでは全然なかった。だから私は長い間,こういう女性になろうとしていた。男性に好かれること(恋愛という文脈で)が,女性の本能的なものなのか,文化装置によって作られた欲望なのかは分からないけれど,私はそれを欲していたのだ。私は,私の「女」を満たすのは,男性に受け入れられることだと強く感じていたし,今でも,どんなに高い能力を身につけたとしても,仕事で成功したとしても,それは男性にしかできないことではないかと感じている。私は思春期の頃から体型にコンプレックスがあったから,外見を男性好みにすることを諦める代わりに,内面を変えようともがいた。しかし次第に,内面を変えることは,外見を変えること以上に難しく苦しいことだと分かってきた。なぜなら,弱さや感情の揺れなど,私の中で見いだせる女性っぽいとされるような特性を素直に表現することにひどく抵抗があるし,気が利くとか,初心でいるとか,男性を立てるとかは,自然にできず,それをする度に違和感や煩わしさ,強い抵抗を感じてしまっていたからだ。それで自分の中でごちゃごちゃしていた状態が続いていたのだと思う。

しかしここ数年で私のこじらせは少し落ち着いてきたように思う。それは,現実を知ったからだろう。男性にモテないけれどモテたい私とか,一般ウケする女性にはなれそうにない私とか,余計なことを考えずに自分らしくいたい私とか,自己に関する葛藤を受け入れるよう努める一方で,自らの女性性と対峙した経験やそこから生まれた考え,葛藤,克服などを記した女性たちのエッセイや雑誌記事を読むようになった。本の中の女性たちの経験からは,自分の経験や葛藤との共通性が感じられた。彼女たちの声はとてもリアルで,温かく,心強かった。さらに,男性たちはどんな女性を望んでいるのかを実際に男性の友人たちに聞いた。そうすると,当たり前といえば当たり前だが,男性たちの望むリアルな女性像は私が思っていた以上に多様で,私の抱いていた「女性的なもの」だけでは収束できないことが分かった。私の抱いている「女性的なもの」になることは,それほど重要でないと思えた。私は,時間がかかっても,数が少なくても,作りこんでいない私を受け入れてくれる男性がいることを信じるほうがいいと思うようになっていった。そしてこれもまた当たり前の話だが,体型コンプレックスは言い訳に過ぎず克服が可能であることを悟った。
と並行して、好きで努力して身につけた能力を使って今仕事していること、そしてその仕事をしている自分が好きであることも大きい。このことは、自分に対する自信を高めることに貢献していると思う。今,「私は女としてダメなんじゃないか」という,自分に課していた劣等感のようなものは色あせてきている。ようやく私は,「私は女である」という事実を,最近になってだいぶ自然に扱えるようになった。

現代は,男女平等で個人が主体的に生きられる社会である。でも,そこで生きる個人は性からは逃れられない。自分は逃れたと思ったもしても、他者からの視点には性がつきまとう。それは、男性と女性にはれっきとした差異があるし,生殖という点で互いが不可欠だからだ。それでも主体的に生きるために、まずは自分に内在化されている性に関するイメージを疑うことから始めるのがいいのかもしれない。


参考資料
雨宮まみ(2015). 女子をこじらせて 幻冬舎文庫 (http://www.amazon.co.jp/dp/4344423216
千田有紀(2009). ヒューマニティーズ 女性学/男性学 岩波書店 (http://www.amazon.co.jp/dp/400028326X
井上洋子,古賀邦子,富永桂子,星乃治彦,松田昌子(2012). ジェンダーの西洋史〔3訂版〕 法律文化社 (http://www.amazon.co.jp/dp/4589034042
講義で配布された資料および授業内容

2016/09/03

読書記 三田紀房,関達也「銀のアンカー」

「今更こんなこと言われても,もうどうにもならないじゃん!」とこの漫画を読みながら何度思ったことか。悔しいし,やりきれないし,自己嫌悪にもなるし,漫画の中の就活生たちをうらやましく思うし。読めば読むほど,私自身の就職活動を思い起こさずにはいられない『銀のアンカー』(http://www.amazon.co.jp/dp/4088596307)は,最後まで読み切るのがしんどかった。それもそのはず,私は新卒で入社した会社を7ヶ月でやめたからである。そしてその最大の理由は,社会のことも自分のこともろくに考えずに,よく分からないまま適当に就職活動を行って終了してしまったことにあると思っている。自分が社会に対して何ができるかなんてこれっぽっちも考えていなかったし,お金を稼ぐことがどれだけ大変かも全然分かっていなかった。完全に「働く」ということを舐めていた。

『銀のアンカー』は,大学生の就職活動を描いている。それも,自分が何をしたいのか分からない,就職活動をどこから始めたらいいのか分からない,ごく普通の大学生たちの就職活動である。彼らが,凄腕ヘッドハンダーから指南を受けて社会を知り,自分を知り,企業を知って自らが向かう道を定め,書類選考,面接を突破して,内定を勝ち取り社会に出るまでの足取りを,実践的なアドバイスと実践例を出しながら描いている。

この漫画には,「これ私じゃん!」と感じる大学生がたくさん登場した。例えば,就職活動しなきゃいけないと思っているけど,就職したくないし,どうしたらいいか分からないしと,もんもんとしてなかなか行動を起こせない大学生。仕事に対して現実離れした夢を見て,企業からの情報はすぐ鵜呑みにしてしまう大学生。社会の現実と向き合わず,社会に蔓延するずるさや汚さを嫌悪して,自分の信じるきれいごとを並べる大学生。どれもこれも私じゃないかと,読んでいてうんざりするほどだった。
就職活動をしているときの私はまさにこんな感じだった。親からは,「卒業したら就職しなくてどうするんだ」と散々言われ,周りの友達も就職活動をしているのを見て,「あぁ,私も就職活動しなきゃいけないのか」と思って,人より出遅れて就職活動を始めた。そして見よう見まねでやった自己分析。自分の過去を掘り下げて,いろいろな経験を思い出してみたけれど,私には自分が何をしたいのか,どう生きたいのかが見えてこなかった。いや,というよりも,見えてきたことは見えてきた。しかしそれはどこか嘘っぽく,無理に作ったものっぽく,自分の心からの気持ちを反映しているようには到底感じられなかった。そんな状態だから私は見境なくいろいろな企業を受けていた。そしてその度に,自分でもよく分かっていない志望理由を書き続けていた。

こんなことになった理由は,明らかである。私は社会を知ることを怠ったのだ。自分は何をしてきたのか,自分は何をしたいのか,それはそれなりに考えていたが,私は自分しか見ていなかった。社会の中の自分,他人と共生する自分という視点から自分を捉えることが全くなかった。自分を社会の一員として捉えて自己分析をすることの必要性は,漫画の中でも描かれている。凄腕ヘッドハンターは,鏡の部分がすっぽり抜ける手鏡を大学生に渡し,最初に鏡に自分の顔を映させた後,鏡の部分を抜き取り,そこから社会を見るように促す。そして,自分が社会とどう関わっていくかを考えることが自己分析だと説くのである。

さらにもう1つ理由がある。私は社会だけでなく,業種,職種,企業について調べることを怠った。漫画には,普段店で目にする商品やサービスを扱う業種にしか学生は目を向けないと描かれていたが,私もそうだった。BtoB取引をメインに展開する業種など,全然頭になく,自分が当時知っていた商品やサービスを扱う企業ばかりを狙っていた。しかも,業界ごとの給与額も調べなかった。漫画では,業界ごとに給与に差があるという事実を知っておくべきこととして描いているが,当時の私は「高ければいいなー。でもそれよりやりたいことやれるかが重要」などと悠長かつ夢物語を宣い,お金に全く敏感ではなかった。お金の重みを理解し,どうしてもやりたいことがなかったことを実感している今なら,当時の私がいかにばかげた考えを持っていたかが分かる。
さらに漫画では,営業職について大学生に考えさせるというエピソードがあった。ここでも私は漫画の大学生と同様だった。営業職を,ノルマや積極性や媚を売ることと,と決めつけて,自分には向いてないししたくないからと最初から除外した。もちろん営業ではノルマも積極性も媚を売ることも必要だろうが,それだけで成り立つわけではない。そもそもそれだけしか持ちあわせていない営業マンに企業も個人も金を出さないだろう。冷静に考えれば分かることなのに,私はそんなことを考えようともしなかった。
業種や職種についてだけでなく,企業をどのように調べるかも漫画で扱われている。企業を知るのに最も有効なのはOB訪問とのことである。企業が開催するセミナーや企業のホームページ,パンフレットでは,企業は基本見せたい情報しか学生に提供しない。それらだけから実際に企業で働く自分の姿を想像すると,確実に入社後ギャップを感じることだろう。だから,企業で実際に働く人に個人的に話を聞くことが重要なのである。その話から,自分がその企業で働く具体的なイメージを考え,企業ごとにそれらを比較する。そうして初めて,入社後スムーズに企業に適応することができるのだ。私は就職活動時,学校でもOB訪問しろと言われていたし,周りにもそうしている友人がいたにも関わらず,「面倒くさいから」,「そんなことしなくてもいろいろ情報集められるし」と思ってしなかった。確かにいろいろな情報を集めることはできた。しかし今振り返れば,それらの情報は,自分の就職を考えるということにおいて,本当に価値があった情報だったとはいえない。私は会社にとって都合のいい情報,自分にとって都合のいい情報しか見ていなかった。そして見ていた企業の数も少なかったから,企業を判断する目も養われていなかった。そんな状態では,自分が一生働きたいと思える企業と巡り会えることは奇跡に近いだろう。

こんな調子で,漫画のページをめくるたびに自らの就職活動のダメさを改めて実感させられていったわけだが,同時に,世の中の大学生たちは私と同じようなことを考え,悩んでいたのかとも思った。私は就職活動中,友人たちと頻繁に連絡し合うこともなかったし,選考で知り合った就活生と情報交換することもなく,就職課に助けを求めたこともなかったから,一人で困って一人で焦っている状態だった。内定を手にしたという話が周囲から聞こえてくる度に,とれていないのは自分だけだと思い込み,自分のダメさに落ち込むだけで,大半の人が私と同様苦労しているなんて考えてもみなかった。漫画の中の大学生たちは,誰一人として順調に就職活動が進んでいない。みんな私と似たようなことを考え,感じ,どうにかしようともがいていた。そこは私と何ら変わるところがない。ただ私と違ったのは,彼らは一人で就職活動を行わずに,他の就活生と情報や感情を共有しながら進んでいったことと,自分がどう生きていくかを現実的に考えたことである。

漫画では,日本は「失敗したら腹切り」の文化で,キャリアアップという考え方が根付いていないゆえ,新卒での就職に失敗したら,格差社会の下の層へどんどん降りていくことになると描かれていた。たしかに,そのことは私もじわじわ実感している。人より秀でた何かがないと,転職ゼロの人たちと同等以上の市場価値にはならない。私はお金が欲しいし,自分が努力して身につけたスキルを使って人に何かを与えたい。であるならどうするか。その欲を満たすための舵取りを今すぐしなくてはならない。悔やんでばかりでは何も変わらない。

すぐに行動すること,自分には無理だと思って自分にストップをかけないこと,社会を知り,その中で自分が何をするか考えること。これらは就活生に向けたアドバイスとして漫画に描かれていたことだが,私に向けられたアドバイスでもある。くだらない理屈をこねて重い腰を上げない,自分には無理と思って及び腰になる,いつも自分が中心で社会に心を開かない,そんなことでは金銭的にも精神的にも今の満足レベル以下の満足しか待ち受けていないように思える。今やるか,さもなくば死か,くらいの勢いでないと私の望むものは手に入らないだろう。しかしそれだけでないけない。あくまでも落ち着いて冷静に。ふんばってとにかくやる,それだけだ。

2016/08/22

ついついしちゃう先延ばし

やらなきゃいけないことを先延ばしにするクセをどうにかしたいと思っている。いろんな策を試しては先延ばししないで済むようにしようとしているのだが,効くときは効くが効かないときは効かないといった具合で,これといった鉄板の解決策が見つからない。

そもそもなんで先延ばしにするんだろうか。それは,それがやりたいことではないからだろう。やりたいことは,意識せずともいつのまにか自然にやっているものだけど,やりたくないことを「やる」まで持っていくには,やる理由がいる。だから,頭の中で理由を作ってみるのだけど,「やる」までモチベーションを上げるほどの理由はなかなか作れるものではないと,最近つくづく感じている。「これをやったらこんないいことがあるかも」とか,「これをやらなかったらこんな悪いことが起こるかも」とか,将来起こりそうなことを想像して理由にすることが多いのだが,その未来を具体的なイメージとして想像できていないうえに,どうも遠い先に起こることのような感じがして,「やる」というところまで自分を律せないのである。

とはいえ実際,たとえ先延ばしにしていても,結局どこかのタイミングで手をつけ終わらせることが多いのだが,それは自分の内側から生じた「やるぞ」という気持ちからではなく,締切が迫っているなど,外からの圧力によるのがほとんどだ。外からの圧力も無視することはできるが,無視した場合のコストを考え,結局やるほうを選んでいる。どうせやるならさっさとやれよ,と思うのだが,これならこのくらいの時期から始めれば大丈夫だろう,といった計算ができるようになってしまっているせいか,ギリギリになるまで始めることができない。

自分の怠けグセにほとほと呆れつつ,先のばし解消に向けて2つの策を試してみた。

①先延ばししていることをやみくもに始めてみる
やりたくないことでも,それを無理にでも始めたら調子づいて進めることができるかもしれない,という理屈で何回かやってみた。四の五の言わずにとにかくやれ!ということだ。これは,書く系のことを先延ばししているときにはけっこう効くと思った。私は学校のレポートをよく先延ばしにするのだけれど,まず,レポートを書くための材料となる資料などを机の上に広げる。それらを眺めつつしばらく座っていても,そう簡単にはやる気は起こらない。だが,その資料を見て感じたこととか思ったことを適当に書き始めると,考えが整理されたりアイディアが浮かんできたりして,勢いに乗って進めることができるのである。何でもいいから書き始めるというのは,先延ばし解消に本当に効果がある。これを図書館でやろうものならなおさらである。図書館には私の気を散らすものがないうえに,周りには勉強している人がたくさんいる。なるほど,それしかやることのないような状況を作って,とりあえず始めてみるとなんとかなるものである。やはり環境統制は意志の統制よりも確実に効果がある。
この方法,書く系以外のことでも効くんだろうか。私は本を読むのもよく先延ばしする。学校に提出するレポートとは異なり,期限を守らなかったときの分かりやすい罰がないので,先延ばしされやすい傾向にある。もちろん,本を買ったり借りたりするときは読む気まんまんなのだ。でも他のやらなければならないことにかまけているうちにどんどんモチベーションが減り,どんどん先延ばされることとなる。しかも私は読むのが遅いうえ,先延ばされる本の多くは小難しい本である。とりあえず,それらの本をやみくもに読み始めてみた。するとどうだろう,眠くなってしまうではないか!脳が拒否反応を起こしているんだろうか。全然先に進まない。ということで,最初から小難しい本を読むのではなく,読みやすい本とか,好きな本とか,ネット上の記事などの,読む抵抗が低めのものを読み始め,少し勢いがついてきたら小難しい本に切り替えるという方法をとってみた。結果はまちまち。読み進めることができるときもあれば,眠くなったり,飽きたりして少し読んで断念,となるときもある。読めるときと読めないときの何が違うかは,よくわからない。読んでいた本の内容かもしれないし,自分の体調のせいもあるかもしれないし,その両方とか,全く別の要因かもしれない。とにかく変数が多すぎてなんともいえない。

②とりあえず寝る
続いてやってみたのは,とりあえず寝るという方法。やらなきゃなー,でもやりたくないなー,そういうときは寝てしまおうということだ。起きていても,もやもやするだけでやらないだろうし,寝てしまえば翌日すっきりしてやる気になるかも,と期待を込めて眠るのだ。しかも,寝てしまって時間を無駄にしちゃったから,さっさとやらなきゃ!となるかもしれない。やってみた結果,書く系,読む系どちらの先延ばしについても,全く効き目はないことが分かった。寝てしまえばごちゃごちゃ考えなくて済むし,身体は健康になるが,先延ばし解消には全然役に立たない。すっきりしたからといってやる気は起こらないし,時間を無駄にしたとは確かに思うものの,やらなきゃ!となるための切迫感が起こらない。

さて最後に,ここまでの中途半端に効果があったり,全く効果がなかった方法とは打って変わり,図らずともいつのまにか先延ばしが解消していたときのことを1つ。怒りや悔しさが,先延ばしの解消につながっていたことである。怒りや悔しさを感じたとき,私は外に出さずに自分の中でどうにか折り合いをつけようとすることが多い。たいていは一過性で,少し経てば激しい感情は収まっているのだが,そうもいかないときがある。そんなとき,そういう感情を消そうと努力しても無駄なことは経験済みなので,それを考えないようにするために,別のことをする。それで先延ばししていたことに手をつけると,意外にはかどることが分かった。

感情の喚起による先延ばしの解消は,なかなか使える方法かもしれない。そういえば以前,イライラしているときにそうじしていたらいつのまにか集中して,普段しないようなところまできれいにしてしまったことがあった。これも行き場のない感情が,益となる行動をするためのエネルギーに変わった例だが,私自身,理屈よりも感情で動きやすい人間であることをふまえると,これをうまく活用しない手はない。とすると,次なる問題は,どうやって感情を喚起させるかだ。なんらかの原因によって既に感情が喚起されているときだったら,すぐさま先延ばししていることを始めればいいが,平常時に意図的に感情を喚起させるにはどうしたらいいものか。しかも,行動へと向けることができると分かっているのは,怒りや悔しさ,イライラなどの負の感情なんだが…。今考えているのは,やる理由を考える際に,感情を喚起させられないものか,ということ。多分,考えるときに具体的,直接的な経験やイメージが想像できると,感情が喚起されるんじゃないか。とりあえずやってみることにする。

2016/08/10

本レビュー エリザベス・キューブラー・ロス「死ぬ瞬間」

これから起こることが楽しみで,待ち遠しくて仕方がない―多くの人はそんな気持ちを抱いたことがあるだろう。例えば週末に旅行を予定しているとき,長年会っていなかった友人に会うとき,早くその日にならないかなと思う。でも最近,そう思うことに違和感を感じるようになった。私たち生き物は刻々と死に向かって歩みを進めているわけで,早くその日になってほしいと願うのは,自ら進んで死に近づいていくようなものじゃないか,と思ったからだ。将来に起こることが待ち遠しいとき,ただ純粋に早くそれをしたいだけだ。でも,死に近づいていくことなんだと感じてしまってからは,未来に起こることへの期待がちょっと複雑なものになってしまった。それは多分,死は私にとって恐怖で,近寄りたくないもので,考えたくないものだからだ。私は死を直視できない。

死を考えたくない,というのは今に始まったことではない。何かの本で読んだことがあるが,多くの人は思春期に,死について考えることがあるらしい。ご多分に漏れず,私も小学校高学年くらいのとき,よく死について考えていた。死んだらどうなるんだろうということをぼんやりと考えていたが,答えが見つからいばかりか,自分が死んだ後でも変わらずにどこまでも過ぎていく時間の流れを想像しては,怖くて怖くて仕方がなかった。また,高校生の頃,入院している祖父のお見舞いに行く気がなかなか起こらなかったことも,死に近づきたくない気持ちがあったからだろう。長く元気に働いていた祖父は,動くこともご飯を食べることもできなくなり,寝たきりで,身体に固定したチューブから流れてくる栄養をとっていた。しかも,目はばっちり開いていて,何かを訴えているように見えるのに,お話することはできないし,こちらからの問いかけが聞こえているかどうかもよく分からなかった。私は祖父のそんな姿を見るのが辛かった。年をとると人ってこうなってしまうのかとか,祖父は今の自分の状態をどう感じているんだろうとか,生きてるってなんだろうとか,いろいろ思うところがあった。そういうことを考え続けるのは嫌だったし,そんな祖父の姿も見たくなくて,なかなかお見舞いに行けなかった。そして最近では親である。両親ともにまだ健在だが,帰省する度に両親ともに老いていっていることを実感する。そのことを受け入れきれていない。

「死ぬ瞬間」(http://www.amazon.co.jp/dp/4643980230)の著者エリザベス・キューブラー・ロスは,自身の研究を踏まえて,「死はこれまで人間にとってつねに忌むべきことであり,今後もつねにそうでありつづけるだろう」ということが分かったと述べている。それは,私たち人間が無意識のうちに,「自分にかぎって死ぬことは絶対にありえない」という基本認識をもっているからだという。だから,「つねに他人による外部からの悪意ある干渉のせい」で私たちは死ぬのであり,「自然現象や老齢のために死ぬなんて考えられない」としている。死への恐怖は普遍的なもので,それこそ自らが受容するまで私たちは死と戦い続けるのである。

エリザベス・キューブラー・ロスは,余命わずかの多くの患者から,今どういう状態で何を求めているのか,何に心を砕き,日々どんなことを考えているのかなどを聞き,1人ひとりの患者のリアルな姿を知ろうとした。そして,人間が忌むべき死とどう戦うのかを記述した。それが,5段階の死の過程である。
第1段階は,「否認と孤立」である。病気を宣告されるなどして,自分が死ぬことに直面させられたとき,だれにでも起こるのが否認である。私にそんなことあるはずないとし,自らの死を否定する。否認は,不快なことや苦痛なことに対する自己防衛反応だ。そして,この否認は死ぬ本人だけでなく,その家族や友人などの親しい人にも生じるし,その人を治療する医療スタッフの間にも起こる。周囲の人間がその人の死を否認したままその人に接するとき,その人は孤立感を深めることになる。それは,その人が体験している自らの死との戦いを周囲の人と共有することができなくなるからだ。周囲の人が死を否認するとき,その患者は元気になったふりをしたり,病気や死に関する話し合いを避けることを見出している。
第2段階は,「怒り」である。自らの死を否認し続けることができなくなったとき,患者の心には「怒り・激情・妬み・憤慨」といった感情が湧いてくる。そして「『どうして私なのか』という疑問が頭をもたげる」という。何をしても何を見ても不満を感じ,怒りの感情はあちこちに向けられる。そして怒って何かを要求する,文句を言うなどの直接的な行動のほか,一見すると怒りとは関係なさそうな間接的な行動を通して,怒りは表現される。患者が怒りの状態にあるとき,周囲の人間がするべきことは,患者から向けられた怒りを自分個人に向けられたものとして受け取らないことである。そのように受け取り,患者を説き伏せようとしたりしようものならますます怒りは増幅する。それと同時に,患者のそばにいて話を聞き,怒りを受け止めようとしていくことである。周囲の人が患者を受け入れていくことで患者は自らの怒りをしずめていくことができる。
第3段階は,「取り引き」だ。避けられないと認識した自らの死を先延ばしにするために,交渉を試みる段階である。これができたらそれ以上は望まないので,どうかそれまで延命させてほしいと願う。しかしその望みが叶っても,さらなる延命を望むのが常である。
第4段階は,「抑鬱」である。抑うつは喪失感から来るものであるとしている。喪失感を感じる原因はいろいろだが,自らの身体が思い通りに動かない,経済的な負担が増える,職を失うなどの反応的な抑鬱と,これから家族と過ごすことができなくなる,など自分の死後を考えたときにみまわれる準備的な抑鬱がある。準備的な抑鬱の段階にいる患者は,その前に経てきたどの段階よりも死に対する覚悟ができ,自らの死を落ち着いて受け止めることができるようになってきている。
そして第5段階が,「受容」である。否認や怒り,喪失感を感じる段階を経て,自らの死を静観する,感情が欠落した状態である。このとき患者は,「しだいに長い時間眠っていたいと思うようになる」としている。そして,「まわりに対する関心が薄れ」,「一人にしてほしい,せめて世間の出来事や問題には煩わされたくないと願う」という。また,周囲の人がただその患者のそばにいて黙って手を握ることは,患者にとって意味のあることとなる。
これらの5段階は,全ての人において順に進んでいくとは限らない。部分的な否認は、第2段階や第3段階でも現れるし、先に進んではまた戻ってを繰り返したり,どこかの段階でとどまったまま死を迎えたりもする。しかしいずれの段階においても,患者は生き続けられるという希望を捨てていないとエリザベス・キューブラー・ロスは述べている。

私はこれから,親しい人の死や自分の死と向き合っていくことができるんだろうか。読んだ後,そんなことを考えた。おそらくそう簡単にはできないだろう。死の過程が分かったからといって,死は依然として近づきたくないものだし,その恐怖に対処できるとは思えない。それに,死が遠い今の状況ではなおさら,恐怖である死についてわざわざ考えたりしないだろうとも思う。だけどこの本は,死と向き合えるようになるヒントを示唆していた。それは,死に対する考えや気持ちを人と共有することだ。死が迫っている患者にとっても,病院で彼らと接する医療スタッフにとっても,死に関する思いを安心して他人と共有できることが死の恐怖に対抗するために有効であった。人はやはり,一人で生きて死んでいくようには作られていないらしい。

この死の過程は,死だけでなく,死のようなとてもじゃないけど簡単には受け入れることができないようなものを受け入れざるをえないときにも起こりうる心理的変化だと思う。自分のことや他人のことを理解したいときに,この5段階を通してみるとこれまでとは違う解釈が可能かもしれない。

2016/07/24

本レビュー 岸見一郎「アドラー心理学入門」

アルフレッド・アドラー(心理学者/精神科医)に関する本が書店で平積みされているのを,数年前からよく見かけるようになった。彼の唱えた説は,ビジネスや教育場面で利用価値があるらしく,また,人生や生きることの意味を考えるときにも参考になるようだ。

アドラーのことをよく知らないので,岸見一郎「アドラー心理学入門」(http://www.amazon.co.jp/dp/4584103127)を手始めに読んでみた。そこに書かれていたことの中で印象的だったアドラーの主張は,①人は客観的な世界には生きていない,②原因論ではなく目的論,2点である。

まず,「人は客観的な世界には生きていない」という点について。もう少し詳しく説明すると,人は誰ひとりとして同じ経験をしながら生きておらず,それぞれの人が自分の好み,関心,信念によって世界を解釈し,その中で生きているということである。このことは,体に染みつかせておきたいことである。というのも,この認識を理屈で理解するだけでなく自分のものとなっていれば,対人関係のトラブルはほぼ起こらないのではないかと思うからだ。対人関係でのトラブルは大抵,他者が自分の思った通りに動かない時に生じる。例えば恋愛において,彼/彼女は私のために時間を割いてくれないとか,例えば職場で,あの人とは仕事がしたくないとか,陰口を言われるとか…。これらの現象の根底には,相手はこう考える/こう行動すると,自分が他者の思考や行動を決定的に考えているからだと思っている。それらは,つまるところ自分の経験などから導き出された偏見で,相手の思考を正確に推測したものではない。にもかかわらず,察してくれないとか,思いやりがないとか,あいつはおかしいとか,グチが出る。それが何であろうと,相手には,相手がそうする論理/理屈がある。そして自分にも,そうする論理/理屈がある。であれば,相手のそれも少なくとも存在くらいは認めざるをえないだろう。自分と相手は違うということを前提にすれば,冷静に状況を判断し対処する準備ができる。もちろん自分の中での葛藤はあるだろうが,自分の論理/理屈を通すか,相手の論理/理屈を受け入れるかの選択も,自分の論理/理屈を通すためにどうするのが適切か,も考えられるようになるだろう。現実的かつ建設的である。

続いて,「原因論ではなく目的論」について。アドラーは,人が何か行動したとき,なぜそんな行動をしたのかではなく,その行動は何のためになされているのか,に注目する。目的論の何にそんなに惹かれたかといえば,目的論を採用すると人の行動(特に他者に対する行動)は”自己の責任”に帰せてしまうところである。自己に責任の所在を置き,それを自分で引き受けることで,未来への希望を維持できる。一方原因論で考えると,責任の所在がはっきりしないばかりか,原因を特定することができるのかどうかも不明である。
例えば,私の行動を例にとって考えてみよう。何年か前,親から食料品や生活雑貨が大量に届いて,文句を言ったことがあった。原因論的に考えてみれば(これは私が真っ先にすることだけれど),私の文句を言うという行動は,現象レベルでは,親が荷物を送ってきたからとか,荷物を片付けるスペースもないのに大量に送ってきたから,などとなる。しかしこうも考えられる。親が荷物を送ってきたことは単なるきっかけで,実はその日は朝から機嫌が悪かったのかもしれないし,疲れていたからかもしれない。または心理レベルではこうも考えられるだろう。私は親からの荷物を,それを使えという親からの要請・強制のように感じ,私の自由を無視されたように感じたから,と。今5つほど考えられる原因を出したが,結局何が真実かは分からない。どれも正しいかもしれないし,いくつかだけ正しいかもしれないし,実はどれも正しくなくて,私が認識していない理由があるのかもしれない。また,最初の2つは親に責任の所在を置き,次の2つは責任の所在が不明,最後の1つは私に責任の所在を置いている。他者に責任の所在を置くと,大抵グチが出る。
では次に見方を変えて,目的論の視点をとってみる。私が文句を言ったのは,私の○○という望みを叶えるためである,というふうに。すると,もう一つの見方ができる。私は自分が自立した人間であることを親に分かってほしいから文句を言ったのではないだろうか?
目的論で考えれば,その目的が事実なのかどうかは特定できないにしても,自分が他者に対して○○するため(他者に対する自分の欲求を満たすため)にそういう行動をしていると解釈するので,どんな解釈をしたとしても自分の欲求と向き合わざるをえなくなる。そして,自分の欲求と向き合えれば,どうやってその欲求を満たしていくか,という新しい問いを解く準備ができる。原因に注目すると,結局自らの過去を探っていくことになる。その原因を取り除ければそんな行動はしなかったとなるだろうが,起きたことは変えることができないではないか。とすると,目的論的考え方が,今や過去に固執する原因論的考え方よりも未来に対して建設的なのは明らかだ。

これらのことから,アドラーは個々人の自立を重要視していたといえる。自分と相手を異なるものとしたうえで,自分の欲求を満たすべく相手に働きかけ,行動の責任を自らが引き受ける。とどまることなく,常にダイナミックに生きる人間像が浮かんでくる。希望が湧いてくる主張ではないか。

2016/06/23

映画レビュー 「脳内ポイズンベリー」

久しぶりに邦画を見た。「脳内ポイズンベリー」(http://www.amazon.co.jp/dp/B014141GIK)である。原作は同名の少女漫画(http://www.amazon.co.jp/dp/4088656261)。こちらは読んだことがないのだけど,映画はけっこうおもしろかった。何がおもしろかったかというと,主人公いちこの頭の中で繰り広げられる5人の議論というか戦い?である。おそらく私の頭の中で起こっていることを可視化しても,こんな感じになるのではなかろうか。

多くの人は何かを決めるとき,その決定によって起こりうるであろうことをいくつか挙げ,その中から最適なものを選び取るだろう。「脳内ポイズンベリー」が描いているのは,その最適解を選ぶまでの脳内プロセスである。いちこの脳内には5つの人格が存在しており,それぞれが主張し議論し合っていちこに決定を下させるの。5つの人格は,議長の吉田,ネガティブ池田,感情的なハトコ,ポジティブ石橋,記憶を管理する岸である。この5人が議論しすぎて疲弊すると,黒い女が場を乗っ取り,いちこに本能的な決定を下させる。心理学では,理性と感情が相互に関わりながら意思決定がなされる,というのが定石だが,5つの人格を分類するならば,理性寄りなのは吉田と池田,石橋で,感情寄りはハトコと黒い女になるだろう。ネガティブ池田とポジティブ石橋は,理屈をこねて悪い方に解釈/良い方に解釈するので,感情だけのハトコや本能の黒い女とは少し違うし,議長吉田は全員の主張をふまえて最終決定を下す立場にある。記憶の岸は理性組へのデータ提供的な位置付けである。

この頭の中のやりとりを見ていてゾッとしたのは,ネガティブ池田の人格である。ネガティブ池田はその名のとおり,基本すべてネガティブにしか考えない。だから,好意を向けている人のふとした発言も,彼の本当の意図を知ることなく悪く解釈するし,行動に伴うリスクを実際以上に高く見積もる。しかも最もらしい理屈を並べ立ててそうするからタチが悪い。ネガティブ池田が力を発揮すると,その先の思考はストップし,自分の中にひきこもることで必死に自分を守るという決定に帰結することになる。

私にはネガティブ池田の思考パターンがよく分かる。私もネガティブに考えがちだし,ひきこもっての防衛は自分がしがちな防衛パターンの1つだと認識している。しかし,1人格として客観的にネガティブ池田の理屈を眺めてみると,だんだんその人格を現実感のない,恐ろしい存在と感じるようになってきた。池田の採る,ものすごく狭い視野で,他人を拒むことによって自分を生かすという方略は,いろんな人がいる広い世界で生き,かつ他人と関わらずには生きていけない人間にとって,かなり無理がある。しかも池田は強い。すべてを破壊する。そう,負のパワーは強くて勢いがあるのだ。私の経験を振り返ってもそれは言えること。怒り,嫌悪,うらみ,ねたみ,悲しみなどから生まれるパワーはポジティブなことから生まれるパワー以上に行動を駆り立て,解消に向かって人を邁進させていく。

映画終了後思ったことは,私の中にも存在するネガティブ池田に好き勝手ふるまわせないようにしよう,ということである。

2016/05/09

イケメン戦国プレイ中

ここ数ヶ月,CYBIRDがリリースしている恋愛ゲーム「イケメン戦国 時をかける恋」(http://www.ikemen-sengoku.jp/)で遊んでいる。課金はせず,無料で遊べる範囲で遊びつくしているわけだが,つい毎日ログインしてしまうほどに面白い。なんでこんなに面白く感じるのだろうと考えていたのだが,ファンタジーの世界とリアルの世界の間で宙ぶらりんになっているような感覚が味わえるからではないか,と思い至った。もちろん,ゲームだから完全にファンタジーなのは理解している。でもストーリーは,ところどころ現実感を帯びているし,随所随所で感情を揺さぶられる。それがツボになっているのかもしれない。

「イケメン戦国」についてちょっと説明をすると,戦国武将たちとの恋愛をすすめていく恋愛ゲームである。主人公(デザイナー志望の女)は突然,500年前の日本(戦国時代)にタイムスリップさせられてしまい,本能寺で殺されそうになっていた織田信長を助け,そこから戦国武将たちとの戦国ライフが始まるのである。ちなみに出てくるキャラクターは信長に加え,豊臣秀吉,明智光秀,伊達政宗,徳川家康,石田三成(彼らは織田軍の一員として信長に仕えている),上杉謙信,武田信玄,真田幸村,猿飛佐助(信長の敵上杉・武田連合軍),顕如(信長を恨む僧侶)である。そして,プレーヤーはここにいる武将たち(今のところ,信長,政宗,家康,秀吉,幸村の5人)との恋愛物語を進めることができるのだ。

初期の舞台設定がフィクションであることは明らかだ。しかし,史実に基づいていると思われるところもところどころある。ストーリーを進めていってもそのあたりはけっこう配慮されていて,出てくる武将たちは,主人公が使う外来語を解せないし,日本のことは日ノ本と言うし,プレゼントといえば,茶屋のお団子やかんざし,小袖である。このちょこっと現実感は舞台設定だけでなく,キャラクター設定でもなされている。キャラクターは総勢11人だが,それぞれ史実を参考にしているだろうと思われる設定となっている。例えば信長は,俺様,囲碁強い,革新的なキャラで,天下統一すべく戦っている。秀吉は信長の忠臣で,人たらし,サルと呼ばれていたという説からなのか,ペットで猿を買っている…。それに加え,どのキャラクターも女子ウケする設定が組み込まれている。(俺様,兄貴分,快楽主義,頭脳明晰,意地悪,ときおり見せる可愛さ,ヤンデレ,天然,天邪鬼など…)。なんというか,女子が好きそうな性格見本市のような気さえしてくる。リアルの世界であれ,ファンタジーの世界であれ,こういう要素を持ち合わせる男性に魅力を感じる女性は少なくないんじゃなかろうか。さらに,もう一つ付け加えれば,ゲームのタイトルどおり,11人全員がイケメンでスタイル良し。ゲーム内のキャラ紹介プロフィールに身長の記載があったことには驚いた。なるほど,身長の情報も選択するときの材料になるということであろう。(ちなみに,高身長な男性が好きな私は高身長のキャラを選んでいた…)

そんな設定のもと恋愛物語を進めていくわけだが,ストーリーの流れは予め決まっている。大枠だけでいえば,主人公が選択した武将に恋をする→武将も主人公を好きになり始める→戦/主人公が現代に戻される!?などのハプニング→完全無欠のハッピーエンディングといった感じだ。私はこのベタベタ感が,安心できて好きなのである。ストーリーは,登場人物たちの会話と心情描写を中心に進んでいく。プレーヤーは1つの話が完結する間に30回弱くらい,選択肢の中から主人公の発言を選ぶことができる。とはいえ,主人公のキャラ設定も物語ごとになされているし,選択肢のバリエーションは少ないから,自分が主人公になりきって恋愛を楽しんでいるというよりは,恋愛漫画を読んでいるような感じである。でも,漫画よりも臨場感がある。漫画と大きく違うのは,まず声があることだ。すべての会話が声になっているわけではないが,一部のセリフ(女子をキュンとさせるようなセリフばかり)は声ありである。しかも,スマホの小さな画面で,画面いっぱいに映しだされた武将の顔とともに会話が1つずつ進んでいく。そして主人公の顔は一切でない。漫画の場合は,あくまでも自分は一観客的な視点でその話を追っていったり感情移入したりすると思うのだが,ゲームの場合,画面には武将の顔がドンとあり,それと向かいあって話を進めていくわけだから,完全な観客ではいられなくなってしまう。よって,感情の揺さぶられ具合も漫画より大きくなる。そして,極めつけは,女子にとってどこまでも都合のよいストーリーである。主人公は選んだ武将からとにかく愛される。武将にとって唯一無二の特別な女になり,守られ,大切にされ,求められる。愛情表現も豊富。個人的には,もし現実の恋愛でそうであったら逆に恐ろしいと感じるほどにだ。とはいえやっぱり,現実の恋愛で,好きな男性の行動や言葉から,愛されてるな,大切にされてるな,と感じる瞬間はとても嬉しいし,幸せなわけで。そういうのを好みのイケメン武将から惜しみなく与えられたら,トキメクのはもはや仕方ない。ある意味,ファンタジーだからこそ,現実の恋愛よりもキャラクターとの間に距離があるからこそ,そのトキメキに没入していられるのかもしれない。

そういうわけで,今日もまた「イケメン戦国」にログインするのである。

2016/04/07

本レビュー ジョセフ・ルドゥー「エモーショナル・ブレイン」, ラリー・ヤング,ブライアン・アレグザンダー「性と愛の脳科学」

私たちが感じたり,考えたり,行動したりするとき,脳の中ではどんなことが起こっているのか?このテーマに関する2冊の本を先学期読んだ。ジョセフ・ルドゥー著の「エモーショナル・ブレイン」(http://www.amazon.co.jp/dp/4130633198)と,ラリー・ヤングとブライアン・アレグザンダー共著の「性と愛の脳科学」(http://www.amazon.co.jp/dp/4120047628)である。前者は,刺激を感覚器官で受け取ってから,脳内で情動が起こり,それが意識化され,行動が促される,そのしくみはどういうものなのかを著したもの,後者は,ヒトの性別はどのように作られるのか,性愛や愛情,子育て時に生じた感情や行動の裏側で脳では何が起きているのか,を著したものである。どちらも厚めで読み応えがある本だ。書かれていることを全て理解したとは到底言えないのだが,ヒトがどのように生まれついているのかを垣間見ることができた。

「エモーショナル・ブレイン」では,情動の性質と,認知との関わり,”恐怖”に関する脳内経路を学んだ。本にはいくつかの情動の性質が言及されていた。それらの性質のうち,情動の本質を捉えていると私が思うのは,自動性と生存への寄与である。生物は,何らかの刺激を環境から感覚器官が受け取ると,それに対してどう対処するかを定めるために何らかの判断を下す。そしてその判断に基づいて行動が起こされるわけだが,通常,自らの生存に有利な行動が導かれる。この判断には,脳が勝手に行うものと,自ら意識的に行うものがある。この2つのさじ加減は状況によって異なる。危機的状況では,脳が勝手に行う自動的な判断によって,とっさの行動が起こる場合もあるだろし,余裕のある状況では,ちょっと待てよと立ち止まり,準備していた行動を変えることもあるだろう。いずれにしても,判断のうち,自らがその刺激について考えるよりも早く自動的に下される判断は情動の機能といってよいと思う。ちなみに感情は,脳の勝手な判断ののち,意識上に上ってくるものである。そして,生物は生を志向しているわけだから,当然情動も私たちの生存に有利なように働いてくれている。心理学では,情動と認知との間で,情動と認知はどっちが先に働き始めるのかについての論争があったようだ。この本で両者の言い分を読んだ限りでは,この論争はつまるところ,何を情動とするのか,認知とするのかが科学者間で一致していないがゆえに決着がつかなかったんだろう,という感想である。
また著者は感情の中の恐怖に注目し,恐怖感情はどのように起こり,その後の行動へと促されていくのかを研究してきた人である。彼によれば,恐怖の脳内経路は2つに分けられる。刺激を受け取ってから情動が生じるまでの時間が短い経路(要点だけ書くと,刺激→視床→扁桃体→行動)と長い経路(刺激→視床→皮質→扁桃体→行動)である。時間の短い経路は,時間が短い分,刺激の特徴を細かく弁別したりすることはできないが,危険を感じてからそれへの対処行動をいち早く導いてくれる。一方,時間のかかる経路は,時間のかからない経路でおろそかになっていた刺激の弁別をやってくれる。そして,刺激に対する対処行動をときには制御するのである。なんとうまいこと脳はできているんだろうと,感嘆してしまう。

私たちは自分が気持ち良いと感じることをするよう動機づけられており,その感情をもたらす脳内の神経基盤は報酬系と呼ばれている。その報酬系と性欲,子育て,愛情の仕組みについて書かれているのが「性と愛の脳科学」である。その仕組みはこのブログで簡単にまとめることができないので詳細は読んで欲しいのだが,これもまた情動と同様,脳のいくつかの部位における情報伝達とそれに伴う神経伝達物質やホルモンの働きが組み合わさってもたらされたものである。またこの本には,性別が母親の胎内でどう作られるかや,浮気の原因についても記載されている。性別の形成は,発達段階において胎児がどの程度男性ホルモンのテストステロンにさらされるかによって変わってくるらしく,浮気については,おもに新奇性を追求する遺伝子の働きの強さが関係しているらしい。

私は脳の仕組みを知る度にそのシステムに圧倒されている。脳内で起こっていることは,たくさんの化学反応と電気信号の伝達にすぎない。でもそれらが私たちを生かしている。そして,それらはさまざまな感情や行動として表に現れる。それに,脳のシステムがあるから,環境や他人と関わることができる。そして,そういう一切のやりとりから脳は何かを学び,生を維持させるべく適応していく。それって本当にすごいことではないか。

2016/03/25

研究を1つ終えて

先日,ファジィ学会のワークショップで研究発表をしてきた(http://www.j-soft.org/~kanto/)。大学で私の研究のスーパーバイザーをしてくれている先生がこの学会のオーガナイザーの1人ということで,研究発表の機会を私に与えてくれた。人生初の研究発表,この日までの約半年間,構想の段階からとにかくいろいろあったが,ひとまず形として残せたことで達成感とちょっとの自信が得られた。

大学生の1つの仕事は研究することだ。講義を受けて単位をとることも仕事の1つだが,それだけでは,その学問領域でこれまでどんなことがあったのかについての少しの知識と,学士号を得るだけで終わるだろう。私の場合,大学生活は2度目だから学士号はすでに持っている。しかも誰かがやったことや考えたことというのは,本にいくらでも書いてあり,それだけ得るために大学に行く意味はあまりないのだ。幸い興味があることはあったし,人が薦めてくれたテーマもあったから,昨年度の段階で研究を始めようとした。しかし,どこから手をつけたらいいのかよく分からない,新しいことを学ぶと興味がそっちにも広がり余計収拾がつかなくなる,テーマを深掘りできない,といった問題と言う名の言い訳がポンポン現れ,さらには講義を受けて単位をとるという安易な習慣に流れ(私はこれがとても得意!),結局ろくに研究しないまま1年ちょっと過ぎてしまっていた。そんなもやもやを講義で仲良くなった先生に話したら,「じゃあ3月に研究発表しましょう」となり,それをきっかけに今回の研究がスタートすることになった。昨年の夏休みごろである。

スタートしたのはいいものの,もやもやしている状態で始めているのだから,そううまくコトは運ばない。しかし,デッドラインが決まっていたこと,たとえもやっとしたものでも先生に相談すればアドバイスをもらえたこと,そして「あんたまた逃げるの?」という自らへの脅しのおかげで,行きつ戻りつしながら方向性や研究方法が徐々に固まっていき,データ収集,データ分析を経て1つの研究が終了。そして研究結果が出揃ったかと思えば今度は,どう発表しようかと試行錯誤することとなり,ギリギリまで引っ張ってようやくレジュメが完成。発表の練習は不十分のまま本番に臨んでしまった。

研究の構想から発表までを今回経験してみて,いろいろなことに気づいた。1つの研究で解明できることは些細なことでしかないこと,なんでも研究対象になること,望ましい結果が出なくとも,それはそれで意味のある研究結果であることなど。しかしそれ以上に,自分の現在の立ち位置/レベルを把握できたことがとてもよかった。研究についてもやもやしていたころはいまいち現実感もなく甘えもあったけれど,実際にやると現実に問題がどんどん発生するし,誰も私に代わって対処してくれない。そのうえ,研究は強制されたものではなく,自分の好きなようにやることを求められ,やめることすら自由だったので,研究スキル以外の自分の能力,傾向までも突きつけられることとなった。結果として,私は何がどの程度できるのか/できないのかが浮き彫りになってしまった。でもそれは当初予期していたような痛みを伴うものではなかった。そしてこれからどうしていくのか?という問いに対して,なんというか,やっとスタートラインに到着したような気がする。

今後も研究は続けていく。今回の研究は,自分の意志で進めてきたものではあるものの,満足のいく出来ではない。結果はきちんと出ているが,構想段階での着眼点や詰めが甘かったため,自分の知りたかったことの核心から外れてしまったように感じている。次に形にする研究は,調査/実験を始める前段階を丁寧に進めたい。

2016/03/18

体が軽くなりました

昨年11月,ダイエットを始めた。ダイエット5ヶ月目の現在までに,元の体重から約10kg減った。あと数キロ減らしたい兼リバウンドしたくないとの理由から,今も継続中である。小学生のころからぽっちゃりだった(というか,体が縦にも横にも平均サイズより大きかった)私は,10代の頃から何度もダイエットしてきたが,減った体重の量,減るペース,やり方のどれをとっても今回のはこれまでで最も成功したダイエットと言える。

ダイエットを始めるきっかけはだいたい突然やってくる。これまでのダイエット経験を振り返ると,きっかけ第1位は,「太った」とか,「太っている」といった類の人からの突然の指摘である。そもそも私は体重を測るのが昔から好きじゃない。太っていると分かっているのに,何が楽しくてわざわざそれを数字で突きつけられなければならないのか。ということで,健康診断でもない限り,私が自分の体重を知ることはほとんどない。ちなみに,ここ数年の健康診断で知った体重は,嬉しいことにそれほどショックを受けるようなものではなかった。痩せてはいないがとりあえず許容範囲でまあいいか,となっていた。しかし,健康診断なんてそう頻繁にあるものではない。だから,健康診断と健康診断の間の期間は,まさに体重が好き放題に動いているということになる。今回のダイエットは,まさにこの期間に友人から「最近太ったよ」と指摘されたことに始まった。そう指摘されたものの,私自身は太ったという自覚が全くなかった。週1程度で近所のスポーツセンターで運動していたし,暴飲暴食をしているつもりもなかった。そして―これがおそらく自覚できなかった最たる理由だが―体重はある日突然どっさり増えるのではなく,徐々に増えていくのである。毎日自分の顔や体を鏡でさくっと見ているだけの私は,その日々の脂肪の積み重ねに気づけなかった。体重計を使わずしてどうしたら自分の体重を正確に把握することができようか…。結局友人に促され,嫌々体重計にのったところ,自分が想定していた体重よりも6kgも増えていた。それが昨年11月。これはホントに一大事であった。

ダイエットを始めた11月から現在まで,減量のための取り組みはほとんど変わっていない。それは,食事,運動,入浴,体重計測である。まず食事については,野菜をなるべく多く摂るようにし,1日に食べる食事の総量を減らした。ごはんを少なめにするとか,間食しないとか,チョコしばらく我慢とか,その程度である。また,食べ過ぎが気になった時はその後数回の食事量をさらに調整し,相殺できるようにした。続いて運動。これはダイエットを始める前から大きく変わっていない。週に1~2回近所のスポーツセンターに行って,脚まわりとお腹まわりと背中まわりの筋肉を鍛え,その後30分程度走る,というものだ。そして今回最も効果があったように感じられるのが入浴である。私は実家暮らしをやめてから,湯船には浸からず毎日シャワーで済ませていた。でも友人からのアドバイスに従い,毎日30分くらい湯船につかった。そうすると,体力を使うと同時に,体がとてもあたたまるようになった。おそらく代謝もよくなっていったのだと思う。そして最後は毎日の体重計測。一度体重を測ってしまうと,翌日の体重計測は全然苦ではなくなるものである。ということで,毎日体重を測っては記録している。太った,痩せたの一喜一憂は多少あるが,体重を測ることで,自分で自分を管理しなくてはいけないことを思い知らされる。
これらを続けていった結果,最初の数週間で3kgくらい落ち,その後はペースダウンして少しずつ減っていき,若干の停滞期を経て,今に至る。そう,ダイエットを始めると最初はけっこうハイペースで体重が落ちるのだが,あるとき落ちなくなることがある。今回もだし,これまでのダイエット時にもそうだった。なぜそうなるのかは分からないが,その停滞期を突破するとまた少しずつ落ちるようになる。自分の体重の推移を見る限り,今は停滞期突破後ではないかと思う。

痩せた自分を感じられることはいつだって嬉しい。自分のがんばりが報われた!という嬉しさと,私前よりキレイになった!という嬉しさがある。「太っていても私はキレイ」とは思えない人なのだ。さらに体が軽くなったことで若干動きが機敏になったし,脚まわりやお腹まわりにあった本来なくてもよい脂肪が邪魔をしなくなったことで,歩き方も変わった。いいことづくめだ。しかしここで気を抜くわけにはいかない。痩せた喜びを感じ続けられるか,はたまた「太った」とまた人から指摘されるかどうかは,私の自己管理能力にかかっている。

2016/03/09

You are not that special !

人は,自分の存在や行動について,他者が気づいている,注目していると実際以上に過大に推測する傾向があるらしい。社会心理学の分野ではこれを,「スポットライト効果」(Gilovochらによる)と呼ぶ。まさに,自らのみにスポットライトが当たり,観客の視線を集めているかのように感じられる,そんな心情である。多くの人には多かれ少なかれその傾向があるらしい。

このスポットライト効果は,いろいろな場面で経験される。私自身のことを振り返ってみれば,例えば美容院に行ったあとに友人と会ったとき。友人は自分が髪を切ったことに気づいてくれるだろうと推測するものの,当の友人は全く気づかない。がっかりである。そういえば昔こんなこともあった。私はスカートを履くのが嫌いだった。理由は,常々太いと感じていた脚を見せるのが恥ずかしいと思っていたからだが,いざ履いて出かけてみると誰もなんとも思っていないことが分かる。たしかに私も,誰かのスカートから太い脚が見えているのなんて正直どうでもいい。
日常生活で経験するスポットライト効果は,もちろん統制された実験室実験によっても示されている。Gilovochらは,自分の外見や行動の変化に対してや,自分が恥ずかしいと感じている状況においてスポットライト効果が生じていることを実証した。

ところでこのスポットライト効果,”自分がいない”という現象においても生じることが分かっている。つまり,”自分がいない”ことに対しても,他者が実際以上に気づいている,注目していると推測するのである。このこともいくつかの実験により実証されている。例えばSavitskyらは,実験参加者のうち1人に“自分がいない”条件を割り当て,他の参加者たちがその人の不在をどう認識しているかを推測させた。実験は,”自分がいない”条件の人のみが参加者たちから一時離れてまた戻る,という状況を作ることで行われた(もちろん,”自分がいない”条件の人がいないことを他の参加者にあえて意識させるようなことはしない)。そして,”自分がいない”条件の人は、「何人の人が自分がいないことに気づいたと思うか」という質問をされた。他の参加者たちは,「誰がいなくなったか」「実験でいたのは何人だったと思うか」という質問をされた。その結果,”自分がいない”条件の人は、その人の不在を実際に検出できた人数よりも多くの人が検出できると推測した。また,他の参加者たちが推測したいなくなった人の人数は,”自分がいない”条件の人に比べて少なかった。
また別の実験では,自分の不在がグループの他のメンバーに与える影響が調べられた。それは,実験参加者を5人グループに分けて課題をさせたあと,メンバーの1人を退席させて、残りの4人で心臓移植について議論させるというものだった。退席した1人は議論の様子をモニターで見ており,議論が終了したあと,退席した1人/他の4人は「自分/その人が議論に参加していたときとしなかったときで,どの程度議論が異なるか」と,「自分/その人がいなかったことが議論の雰囲気,グループの最終結論,全体的な議論に影響したか」という質問をされた。結果は,退席した人は議論に参加した人よりも,自分がいるときといないときで議論により差がでると推測し,自分がいなかったことが,グループでの最終結論と全体的な議論により大きな影響を与え,自分がいなかったことが議論の雰囲気により大きく影響したと推測していた。
以上から分かるのは,スポットライト効果は”自分がいない”ことに対しても生じ,それゆえ,自分がいないことが他人に与える影響をも過大に推測しているということである。
この不在のスポットライト効果を知ったとき,遠い昔の恥ずかしい過去を思い出した。とある職場をやめるとき,私がやめたあと職場はどうなるんだろうと心配したことがあったのだ。ひどく傲慢かつうぬぼれた態度であり,今となっては当時そんなことを考えた自分が恥ずかしい。私一人いなくなっても会社はまわるのに。これはまさしく不在のスポットライト効果の一つではないか。それが分かったところで気休めにもならないのだが。

スポットライト効果のメカニズムは,係留と調整のヒューリスティックによる説明が定説である。係留と調整のヒューリスティックとは,簡単に言えば,自分が感じているように相手も感じているだろうと思ってしまうことである。自分が体験していることや感じていることは自分にとっては鮮明で印象に残ることだ(係留点)。相手は実際に体験したり感じたりしているわけではないから,自分よりも鮮明さは落ちると考えられる(要調整)。にもかかわらず係留点からの調整がうまくいかず,その鮮明さ伴ってを相手も経験したり感じたりしているだろうと錯覚してしまうのである。また,係留と調整のヒューリスティックが働いてしまうのは,相手の感情や考えを完璧に把握することはできないからだとされている。つまり,相手が何を考え感じているかを把握するには,推測するしか方法がない。そして推測は大抵何かに基づいて行われる。それが,馴染みのある自分の経験や考え,感情なのである。

自分のことを客観的に見るのは難しい。自分のことならなおさら,見たくないものは見ないし,少しでも自信があることは過大に評価してしまう。あるいは,大したことじゃないことでも悲劇のヒロインよろしく,大げさに捉えてしまったりする。自分を客観的に見るのに困難を伴うのに,相手が自分をどう評価しているかを推測するなんてなおのこと難しいだろう。自分を過小評価する必要はない。でも,「あなたはそれほど特別じゃないのよ」と時々自分で自分を戒めないと,肥大化した自意識をもてあますことになりそうだ。

参考文献
Savitsky, K., Gilovich, T., Berger, G., & Medvec, V. H. (2003). Is our absence as conspicuous as we think? Overestimating the salience and impact of one’s absence from a group. JESP, 39, 386-392(https://goo.gl/RbcrfR

2016/03/01

直観と合理的な判断と

※このテキストは、「認知心理学特殊講義」(2015年後期)で提出したレポートをリライトしたものである。

映画「東京タワー」(http://www.amazon.co.jp/dp/B0003052WI)で岡田くんが言っていた、―恋はするものじゃなく、落ちるものだ― というセリフをきまって思い出すときがある。それは、人から「ゆきはどんな人がいいの?」という、恋愛ネタで浮いた話をしないと高確率で飛んでくるお決まりの質問をされたときである。とりあえず、優しい人、背の高い人、など私が好ましいと感じる男性像に含まれる要素を挙げてみるわけだが、考えるだけ無駄のような気がしてならない。それは、自分が認識している自分の好みだけでは、好きになる人を全く予測できないからである。これまでの恋を振り返れば、私が好ましいと感じる男性像に含まれている要素を持たない人や、もしくは好ましくないと感じる男性像に含まれている要素を持つ人でも好きになったからである。なぜ好きになったのかは正直よく分からない。好きなところを考えてみても、後付け感がぬぐえない。そもそも、誰かを好きだと認識するとき、好きな要素の個数を数えたり、それぞれの要素の重みを計算したりしていない。つまり合理的には判断していないのである。その人と出会い、話したり一緒に何かしたりするうちに好きという感情がただ湧いてくるだけである。それは突然起こることもあるし、じんわり来ることもある。おそらく、その人自身とその人のいる状況なども含めた全体から受けとる何かが私と相互作用を起こし、私の好意が喚起されるのだろうが、いずれにしても自分の認識している自らの好みと意識的に照らし合わせたから好意が生まれたのではなく、直感的なものなのである。

そもそも直感とは何だろうか。Gigerenzerは、gut feeling とintuitionの2種類を定義している。日本語では、前者が直感で後者が直観と訳されている。直感は“一瞬で意識にのぼる判断”を、直観は“基になっている理由が自分でもよく分からない判断”を意味するという。そしてこの直感/直観を構成するのは、Gigerenzerによると、“単純な経験則”(ヒューリスティック)と“脳の進化した能力”とのことである。ヒューリスティックとは、労力をかけずに迅速に対象を理解したり問題を解決したりするために私たちがしばしば利用する方略のことである。また、“脳の進化した能力”についてGigerenzerは、“自然が人間に素質を与え、長年の実践がそれを能力に変える”と言っている。つまり、ヒトが生きていく過程で獲得してきた状況に適応的な能力を意味していると考えてよいだろう。
ヒューリスティックの研究はKahnemanとTverskyによってこれまでに多くなされてきた。ヒューリスティックにはいくつかの種類がある。例えば利用可能性ヒューリスティックを用いると、ある特定の対象が目立っていたり、その対象について頻繁に耳にするなどしてヒトの記憶に強く記銘されたとき、ヒトはその対象が生じる頻度を実際以上に見積もってしまうこととなる。また、係留と調整のヒューリスティックを用いると、自分の行動や考えを基準にし(係留点の設定)、相手の行動や考えを過剰もしくは過小に判断したりすることとなる。これらヒューリスティックの多くは、合理的な判断を妨げるバイアス、自らをだますものという文脈で捉えられることが多い。しかしGigerenzerによれば、ヒューリスティック(“単純な経験則”)を彼のいうところの“脳の進化した能力”によって利用するとき、直感/直観は合理的判断をしたときと同等以上に当事者にとって好ましい結果をもたらすという。その例としてGigerenzerが挙げるのは、ある病院の小児科で起こった出来事である。その病院に入院してきた1歳9ヶ月の男の子に対し、ある医師は行き届いた育児環境を整えることがその子にとって重要と直感的に判断した。そして育児環境を管理したところ、男の子の体調は改善に向かっていった。しかし別の医師は、男の子の病因を突き止めることが体調改善に最も重要と判断し、専門チームを組んで男の子にあらゆる検査を実施した。すると病因が見つからなかったばかりか、男の子は死んでしまったという。このような例は他にもある。Gladwellは著書の中で、美術品(彫刻)鑑定の場面で起こった出来事を挙げている。高解像度の立体顕微鏡によって得られたデータから地質学者が希少な年代ものと判断した美術品に、美術史や彫刻の専門家たちは、言葉では言い表せない違和感や危機感を覚えたのだという。実際にその美術品は偽物であったそうだ。

これらのことから言えるのは、直感/直観は合理的判断を行ったときよりも当事者にとって望ましくない結果をもたらすこともあれば、同等以上の結果をもたらすこともあるということである。つまり、自らの未来に対して直感/直観がもたらす影響は決して少なくなく、合理的判断に重きを置き過ぎることはあまり適切ではないということだ。

ところで、直感/直観と合理的判断の結果が問題になるのは、直感/直観による結果と合理的判断による結果が異なるからである。同じであれば判断結果は1つに収束するので何も問題は起こらない。ではなぜ直感/直観と合理的判断の内容は異なってしまうのだろうか。
合理的な判断とはそもそも自らが意識して行うものである。私たちがそのような意識的な判断をするときに避けて通れないのは、論理や常識や、社会的望ましさによる影響である。私たちは、これらを意識せずとも受け入れているため、社会で適応的に生きられる。
一方直感/直観は、Gigerenzerの定義より、意識上でそう判断した理由をつかむことができず、瞬間的に生じるものであることから、無意識下における判断と考えられる。無意識下で起こっていることといえば、接近行動や回避行動を喚起する情動(原始的な感情)や、食欲や性欲、睡眠欲などの生命維持に関わる欲求、生体内で行われている自律的な身体活動、何度も繰り返し学習したことによって意識せずとも行うことができるようになったスキルなどである。これらは無意識下で行われているため、合理的判断時ほど論理や常識、社会的望ましさによる影響は極めて少ないと思われる。

以上をふまえて、先に出した私の好みのタイプ問題について再検討してみる。私は特定の人に対して直観的に好意を抱く傾向がある。その直観的な好意の正体は本能的なものでもあり、技能学習における成果のように獲得したスキルのようなものでもあると思う。本能的であるとした理由は、恋愛は性欲や快―不快などの原始的な感情と結びつきが深いものだからである。獲得したスキルのようなものであるとした理由は、これまでの人生における経験値があるからである。出会い、関わり、別れるというプロセスを恋愛関係に限らず多くの人と繰り返すことで獲得した、蓄積された膨大なデータは、自分の好む人を無意識的に判断するだけの判断力を持っていると考えられる(というか、そうであると信じたい)。一方、私が認識している自らの好みはいわば、合理的で意識的な判断である。自らの好みを意図せずとも、論理や常識、社会的な望ましさによって、多くの人が好ましいと感じる要素や他人が聞いても変だと感じないような要素へと、幾分同化させて認識してしまっている可能性もあるだろう。

直感/直観と合理的判断はどちらも人間が獲得した能力である。どちらによる判断も未来に何らかの影響を及ぼすことは必至であることが分かった今、2つの判断結果が異なるときにどちらを採用するかは大問題である。しかし結局、未来はいくら考えても正確には予測できない。であればつまるところ、自分の下した判断を受け入れ、楽しめる余裕をもつことがどう判断するかよりも大切であると感じる。


参考文献
Gigerenzer, G. (2007). Gut Feeling: The Intelligence of the Unconscious. Viking Adult. (ギーゲレンツァー, G. 小松淳子(訳) (2010). なぜ直感のほうがうまくいくのか?無意識の知性が決めている インターシフト)(http://www.amazon.co.jp/dp/4772695206
Gladwell, M. (2005). blink: The Power of Thinking Without Thinking. Little, Brown and Company (グラッドウェル, M. 沢田博・阿部尚美(訳) (2006). 第1感「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい 光文社)(http://www.amazon.co.jp/dp/4334961886