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2016/07/24

本レビュー 岸見一郎「アドラー心理学入門」

アルフレッド・アドラー(心理学者/精神科医)に関する本が書店で平積みされているのを,数年前からよく見かけるようになった。彼の唱えた説は,ビジネスや教育場面で利用価値があるらしく,また,人生や生きることの意味を考えるときにも参考になるようだ。

アドラーのことをよく知らないので,岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために」を手始めに読んでみた。そこに書かれていたことの中で印象的だったアドラーの主張は,①人は客観的な世界には生きていない,②原因論ではなく目的論,2点である。

まず,「人は客観的な世界には生きていない」という点について。もう少し詳しく説明すると,人は誰ひとりとして同じ経験をしながら生きておらず,それぞれの人が自分の好み,関心,信念によって世界を解釈し,その中で生きているということである。このことは,体に染みつかせておきたいことである。というのも,この認識を理屈で理解するだけでなく自分のものとなっていれば,対人関係のトラブルはほぼ起こらないのではないかと思うからだ。対人関係でのトラブルは大抵,他者が自分の思った通りに動かない時に生じる。例えば恋愛において,彼/彼女は私のために時間を割いてくれないとか,例えば職場で,あの人とは仕事がしたくないとか,陰口を言われるとか…。これらの現象の根底には,相手はこう考える/こう行動すると,自分が他者の思考や行動を決定的に考えているからだと思っている。それらは,つまるところ自分の経験などから導き出された偏見で,相手の思考を正確に推測したものではない。にもかかわらず,察してくれないとか,思いやりがないとか,あいつはおかしいとか,グチが出る。それが何であろうと,相手には,相手がそうする論理/理屈がある。そして自分にも,そうする論理/理屈がある。であれば,相手のそれも少なくとも存在くらいは認めざるをえないだろう。自分と相手は違うということを前提にすれば,冷静に状況を判断し対処する準備ができる。もちろん自分の中での葛藤はあるだろうが,自分の論理/理屈を通すか,相手の論理/理屈を受け入れるかの選択も,自分の論理/理屈を通すためにどうするのが適切か,も考えられるようになるだろう。現実的かつ建設的である。

続いて,「原因論ではなく目的論」について。アドラーは,人が何か行動したとき,なぜそんな行動をしたのかではなく,その行動は何のためになされているのか,に注目する。目的論の何にそんなに惹かれたかといえば,目的論を採用すると人の行動(特に他者に対する行動)は”自己の責任”に帰せてしまうところである。自己に責任の所在を置き,それを自分で引き受けることで,未来への希望を維持できる。一方原因論で考えると,責任の所在がはっきりしないばかりか,原因を特定することができるのかどうかも不明である。
例えば,私の行動を例にとって考えてみよう。何年か前,親から食料品や生活雑貨が大量に届いて,文句を言ったことがあった。原因論的に考えてみれば(これは私が真っ先にすることだけれど),私の文句を言うという行動は,現象レベルでは,親が荷物を送ってきたからとか,荷物を片付けるスペースもないのに大量に送ってきたから,などとなる。しかしこうも考えられる。親が荷物を送ってきたことは単なるきっかけで,実はその日は朝から機嫌が悪かったのかもしれないし,疲れていたからかもしれない。または心理レベルではこうも考えられるだろう。私は親からの荷物を,それを使えという親からの要請・強制のように感じ,私の自由を無視されたように感じたから,と。今5つほど考えられる原因を出したが,結局何が真実かは分からない。どれも正しいかもしれないし,いくつかだけ正しいかもしれないし,実はどれも正しくなくて,私が認識していない理由があるのかもしれない。また,最初の2つは親に責任の所在を置き,次の2つは責任の所在が不明,最後の1つは私に責任の所在を置いている。他者に責任の所在を置くと,大抵グチが出る。
では次に見方を変えて,目的論の視点をとってみる。私が文句を言ったのは,私の○○という望みを叶えるためである,というふうに。すると,もう一つの見方ができる。私は自分が自立した人間であることを親に分かってほしいから文句を言ったのではないだろうか?
目的論で考えれば,その目的が事実なのかどうかは特定できないにしても,自分が他者に対して○○するため(他者に対する自分の欲求を満たすため)にそういう行動をしていると解釈するので,どんな解釈をしたとしても自分の欲求と向き合わざるをえなくなる。そして,自分の欲求と向き合えれば,どうやってその欲求を満たしていくか,という新しい問いを解く準備ができる。原因に注目すると,結局自らの過去を探っていくことになる。その原因を取り除ければそんな行動はしなかったとなるだろうが,起きたことは変えることができないではないか。とすると,目的論的考え方が,今や過去に固執する原因論的考え方よりも未来に対して建設的なのは明らかだ。

これらのことから,アドラーは個々人の自立を重要視していたといえる。自分と相手を異なるものとしたうえで,自分の欲求を満たすべく相手に働きかけ,行動の責任を自らが引き受ける。とどまることなく,常にダイナミックに生きる人間像が浮かんでくる。希望が湧いてくる主張ではないか。