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2016/10/17

置いてきたもの

10/9に放送された「真田丸」を見ていた時のこと、きり(長澤まさみ)が、信繁(境雅人)に向かって放った言葉が、いたく心に響いた。

”あたしが大好きだった源二郎様はどこへ行ったの?がむしゃらで,むこうみずで,やんちゃで,賢くて明るくて,度胸があって,キラキラしていた。真田家の次男坊はどこへ行ったのよ!あたしが胸を焦がして大阪までついていった,あのときの源二郎様は。”

放送されていたのをそのまま書き取ったので、文字の使い方が脚本とは違っているかもしれないが、そこは目をつむってほしい。この言葉は、先に起こる豊臣VS徳川の戦いで、豊臣側として戦ってほしいと昔の仲間に頼まれた信繁が、自分はどうするべきか、どうしたいのか、もんもんと悩んでいたときに発せられた言葉だ。

実際このシーンは、録画したのを巻き戻して何度か見た。それで、なんでそんなに心に響いたのかを考えていた。単に物語の2人に感情移入したのか、信繁の、将来に悩む姿に共感したのか、きりの信繁への気持ちを感じ取ったのか…。いろいろ思いめぐらせて出たのは、きりが持っていた、好きな人に向かうまっすぐな好きという気持ちだと思った。なんというか、まぶしいと感じた。近頃の私はこんな気持ちになったことがあったかな、とつい自分のことを考えて、そういう気持ちを私自身どこかに置いてきてしまったように感じた。

人を好きになるというのは、本来はすごくシンプルなことのように思う。その人に出会って、その人がする何かに強く惹かれて、あこがれて、その人に近づきたいと思ってみたいな、動きや温度のあるダイナミックなものなんだと思う。ダイナミックな気持ちのありようを感じたり、それに身を任せたり。最近の私はそれよりも、人を好きになるのに理屈をこねている気がする。私の好きな人はこういう人!とか、気持ちの揺れを感じる前に学歴や職業を真っ先に気にしてしまったりとか、その人を好きな自分を人はどう思うのかを考えてしまったり。そりゃ大人になればそうなるよね、とも思う。経験を積めば、学習すれば、そうはいっても実際は…とかいう大人の事情みたいなことも出てくるし、気持ちの折り合いも上手につけられるようになる。でも、気持ちを重視して動けない、気持ちをせき止めてしまっている、そういう自分の側面に悲しさを感じもする。