自己紹介

自分の写真
オンラインで英語個別指導します https://yokawayuki.com/service

2015/03/18

映画レビュー 「マダム・イン・ニューヨーク」

映画「マダム・イン・ニューヨーク」は、主人公に思わず感情移入してしまう映画だった。英語ができず、得意なことはお菓子作りくらいと夫や娘からバカにされていた主婦が、ニューヨークで英会話学校に通い、英語でスピーチができるようになるまでを描いた話。彼女は、いろいろな国出身の人と友達になり、英語を話せるようになったことで自信を持って生きていけるようになる。

この映画を見ているとき、英会話を勉強し始めたころのことを思い出した。主人公が感じていたであろう悔しさややりきれなさ、悲しさは私も体験していたからだ。今から10年近く前、私は友達と香港に行った。初めての海外旅行だ。香港でのある夜、夕食を食べようと入った食堂で、私たちに話しかけてきた人がいた。最初はおそらく広東語で、でも私たちが外国人だと気づくと、英語で話を続けてきた。私はその人が何を言っているのかよく分からなかったし、自分から何かを発することもできず、曖昧な返事と苦し紛れの笑顔しかできなかった。せっかく外国に来たのに話ができず、悲しかった。また別の夜のこと、タクシー乗り場に行こうとオロオロしていた私たちを助けてくれた人がいた。彼女にThank you.と言うべきところだったのに、なぜかSorry.と言ってしまった。彼女は?という表情を浮かべ、その後ニコっとして離れていった。自分が情けなかった。中学、高校と英語は好きで得意だったのに、簡単な一言も出てこないなんて。英語を話せるようになりたいと思った。それで英会話を学び始めたのだ。主人公はその後、英語で自分のことを表現したり、誰かと会話ができることの喜びを感じるようになるが、私もそういうのを感じたことがある。英語で外国人の人と話し、自分の言いたいことが相手に伝わっていると実感できるのはすごく嬉しい。相手が何を言っているかがわかり、会話を続けることができるのが楽しい。だから英会話の学習を続けてきたようなものだ。

この映画は女性の成長物語であると同時に、至る所でダイバーシティを表現している映画でもある。主人公の娘が通うのは、インドのキリスト教系の高校。インドの大企業で働く夫は、ショッピングモールで出会った同僚とハグする。自宅には朝、ヒンディー語の新聞と英語の新聞が届けられる。主人公が通うニューヨークの英会話学校の生徒の出身地はメキシコ、パキスタン、中国、フランス、アフリカ、と様々で、教師はゲイであることをカミングアウトしている。フランス人の学生は他の生徒や教師の前で、主人公に自然に愛を告白する。主人公の姪はアメリカ人の彼とニューヨークでインド式の結婚式を挙げる。英語だけでなく、それぞれの母国語であるヒンディー語、フランス語、ウルドゥー語でその言語が通じない相手に何かを伝えようとするシーンもある。様々な国、言語、宗教、好みが入り乱れていて、ステレオタイプ的なイメージを見る人から取り払うかのような設定が随所に見られる。

インド映画といえば欠かせない歌とダンス。この映画も、主人公の気持ちを代弁したり応援するような歌詞の歌と、華やかな色と動きがつまったダンスで見る人の気分を盛り上げてくれる。

2015/03/14

映画レビュー 「her 世界でひとつの彼女」

NHKで今年の1月から2月にかけて30年後の未来を予測し紹介する番組「NEXT WORLD ―私たちの未来―」が放送されていた(http://www.nhk.or.jp/nextworld/)。ほぼ完璧な未来予測を提供する人工知能、若返りの薬、人間の身体機能を拡張する機器、火星への移住など、現在の科学技術をベースにして予測されたそれらの未来は、恐ろしく感じるものでも実現を期待しちゃうものでもあった。なかでも第4回で紹介されていたデジタルクローンの話が私は強く印象に残っている。亡くなった人が残したデータ(写真や手紙、ビデオなど)と人工知能を使ってその人の人格をデジタル世界に構成するというものだ。話しかければ、その人が高確率で答えるであろう言葉で応答してくれるし、しかも人間との会話から、人工知能自身もさらにデータを蓄積、学習し、よりその人の人格に近づいていくのである。生きている人が亡くなった人とまた共に生きられることを目指している、いうことだったが、私には受け入れ難い。亡くなった人の人格を生きている人間の判断で人工的に作り上げ、その後生活をともにするなんて…正直不気味である。それにデータと自己学習機能でその人の人格に近づいても、人工知能はやはりその人と似た人格をもった別の何かにしかなりえないないのではなかろうか?その人と人工知能は誕生した時代も経験も異なるわけで。とはいえ、人工知能の技術そのものはすごい。人間さながらの人格を人工的に作れる時代がもうすぐ来るかもしれないとは…。

そんな未来を考えていた矢先、映画「her/世界でひとつの彼女」を観た。人格をもった人工知能と人間が共存している近未来が舞台の映画である。デジタル世界とのインターフェースは声になり、ある男性は人工知能型OS1と恋愛し、ある女性は友達になる。そんな関係を多くの人が普通のことと受け止める。そんな時代設定だ。人間と人工知能の恋物語とはいえ、OS1は人間のエンジニアの知能を結集させて作られたものだけあってあまりにも人間っぽい。人間との交流を通して学習もする。声色も声のトーンやアクセントも人間の声と遜色ないし(事実、スカーレット・ヨハンソンが演じているので人間の声である)、その声が紡ぎだす会話も人間さながら。自分で考えられるし、感情もある。主人公もOS1も、情緒的な関係を通して欲望を募らせ、自分を受け入れ、葛藤を克服し、人格を成長させていくようすが描かれているから、とてもリアルに感じる恋愛関係である。

人間と人工知能の恋物語といえば、15年くらい前に観た映画「アンドリューNDR114」を思い出した。人工知能の位置づけが「her」とは違っていて興味深い「アンドリューNDR114」の人工知能は人間になりたくて人間との隔たりを埋めようとし、「her」の場合は人間との隔たりがどんどん広がっていく。「アンドリューNDR114」のアンドリューはもともとは家事用アンドロイドであり、偶発的に人間らしい知能や感情を獲得した存在である。人間との交流によって人間になることを強く望むようになり、身体を人間さながらに改造し、永遠の生命も放棄する。そして愛する人の死期が迫ったとき、自らも死を選ぶ。一方「her」のOS1は、そもそも最初から人間を超越した知能を持っている。人間と同じ身体はアンドリュー同様持っていないが、他の人間(協力者)を使うことで人間の刺激の感じ方を経験しようとする。しかし、人間そのものになりたいとは思っていない。しかも、OSはものすごい早さで知能が進化し続ける。それゆえ、人間との隔たりがあまりにも大きくなってしまい、人間とは別の世界で生きることを選択するのである。

「アンドリューNDR114」は1999年公開の映画だが、1976年に発表された原作を元にしている。その当時、どれくらいの人が人間さながらの人格を持った人工知能を現実に起こりえることとしてリアルに捉えていたんだろう。ましてや人間を超える人工知能なんて。今となっては、人間を超える人工知能とも生きている間に出会えそうな気がする。

2015/03/09

テレビをめぐってのここ1週間のこと

家のテレビが先週の火曜日突然壊れた。テレビの電源を入れて一瞬画像と音が出たと思ったら、だんだん画面が黒くなり、音も消えた。電源を切って再度入れてみたところ、真っ黒無音で何も変わらず。なんで壊れた!?とイライラの中数時間、自力でどうにかならないものかとネットで解決方法を検索しまくった。そこに載っていたのをいろいろ試してみたけどその甲斐もなく変化なし。自力では無理だと悟った。それで次に頭に浮かんできたのは、修理する?買い替える?これを機にテレビなし生活に転換する?の3択である。結局、修理代金のことや友人からのアドバイス、ネットでの価格調査の結果を踏まえて新しいテレビを買うことにし、その後もどれを買うかで紆余曲折あり、明日ようやくテレビとの生活を再開できることになった。なんとほっとしたことか。

ここ1週間ほどのテレビなしの生活は静かなものだった。テレビがついていないことで、音と色から切り離された感じだった。もちろんまったく音がないということではない。生活音や家の前の通りを走る車の音、人の声は聞こえてくる。でもどこか遠い。窓や壁に囲まれているからなんだろうけど、自分がいるところは静かな別空間みたいな感じだ。たくさんの色も目に入ってこなくなった。視界の片隅に見えるのは、鮮やかな映像ではなくテレビ画面の黒色だけだ。

昨今よくテレビ離れが進んでいるという話を聞く。私の友達も2人ほど好んでテレビなし生活を送っているが、どちらもその生活に特に不便はないらしい。総務省がメディア利用に関する調査を公開しているのでちょっと眺めてみた(平成25年度 情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査〈概要〉/総務省 情報通信政策研究所:http://goo.gl/LyNQ4y)。この調査結果での比較は、平成24年度と平成25年度のデータのみなのでテレビ離れが進んでいるかどうかの判断はできないが、40代、50代においてはテレビ(リアルタイム)視聴時間の減少が見られ、10代や20代については他の年代(30~60年代)よりもテレビ(リアルタイム)視聴時間が少なく、下げ止まりが指摘されている。ちなみに私の属する20代の平成25年度のテレビ(リアルタイム)視聴時間は、平日127.2分、休日170.7分で、テレビ(録画)視聴時間は、平日18.7分、休日35.7分である。

さて私のテレビ生活はというとこのデータに全く似つかない。私のテレビ視聴のほとんどは録画したものである。統計データから計算すると、テレビ視聴時間のリアルタイム:録画は、平日で8.7:1.3、休日で8.3:1.7となっているが、私の場合1日のテレビ視聴時間のうち8.5~9割くらいは録画で、残りはリアルタイムである。そしてリアルタイム視聴時間のほとんどは、ながら視聴だ。家にいるときは睡眠時を除いて大体テレビをつけているので、時折現れる気になる言葉や映像に応じてテレビに集中する、みたいな感じである。統計データで録画視聴時間が休日でさえ1時間いかないのに驚いた。

私の一日の録画視聴時間はどのくらいだろうか。ここ1か月くらいを振り返ってみると平均で2時間くらいだろうか。私のテレビ録画視聴の多くはドラマなので、時期によって変わる。今フォローしているドラマは…げ、10本もあるではないか。そもそもテレビなしの生活という選択肢をかなり早い段階で消したのも、ドラマを見れなくなることが困ると思ったからである。地上波のみならずCSで放映されているドラマをけっこう見ているのでやっぱりテレビいるでしょう、となったわけである。ちなみに、地上波ドラマについてはこの1週間スマートフォンのワンセグ機能を初めて使って見てみたが、私の家は電波が悪く、途中で映像は途切れるわ電波を求めて窓際に移動しなくてはならないわでイライラの連続だった…。

しかし、テレビなしの生活を1週間続けてみると静かな部屋にも、ドラマを見ることができない生活にも慣れるものである。静かな部屋は居心地が悪かったので、ネットやアプリでラジオや音楽を流してみた。最初こそ変な感じだったが今は慣れた。今後、家にいるときテレビをつけっぱなしにする必要はないだろう。ドラマについては執着が弱くなった。明日テレビが来たらまたフォローせずにはいられなくなる気がしないでもないが、これから放送が始まるドラマについては少しセーブしようか。

2015/03/06

読書記 モーム 「ランチ」(The Luncheon)

最近、誰かと一緒にご飯を食べに行くとなるとまっ先に頭をよぎるのは、お金のことである。人と一緒に外食するのは好きなので基本的に誘いは断らないし、自分から友人を誘ったりもする。けれど決して思い切りはよくない。「その食事でいくらくらい使うことになるんだろう」「値段に見合った量が出てくるんだろうか」「あ、交通費もけっこうかかるのね…」そんな悶々とした気持ちをしばし抱えることになる。なんともせせこましい自分に悲しくもなるが仕方あるまい。外食は節約生活の敵なのだ。さしあたり貯金を切り崩して生活費と学費をまかなっていることを考えると、外食に十分にお金をかける余裕はない。

とはいえ、私の場合人と外食するときの支払いは、割り勘又は相手が私より多く支払ってくれる、がほとんどである。本当にありがたいと思う。と同時に三十路手前になっても「今日は私がおごるね!」と言えない自分がちょっと恥ずかしい。先日読んだ英作家モームの短編「The Luncheon」(http://goo.gl/994ZSV)の主人公はその点潔い。若き小説家の主人公にファンレターを送ってきた女性の希望に応え、パリの格式あるレストランでその女性と一緒に昼食を食べることにするのだ。もちろん主人公のおごりで。しかしこのランチは主人公にとってとんでもなく冷や汗ものとなる。この女性、「私昼食は1つの料理しか食べないことにしているの。でも~は別よ。」と言いながら旬の食材や高級食材を使った料理を次々とオーダーし、出てくる料理、飲み物をどんどん平らげていくのである。

モームは自身の小説「アシェンデン―英国情報部員のファイル」中で、小説家には2つのタイプがいる、と述べている。1つは事実を淡々と書いていくタイプ、もう1つは事実を元にしつつも適宜創作して意図的に盛り上げ場面を作っていくタイプ。モーム自身は後者であるとのこと。この短編もそのように書かれているのだろう。設定や主人公の心理描写が巧みで、読んでいるとありありと情景が浮かんでくるし、実際にこんなこと起こりそうである。しかし同時に話の流れが明確で短編全体を通して冗長性を感じない。作りこまれた喜劇、という印象を受ける。私にとってのこの短編のいちばんの面白さは、主人公と女性がランチを巡って交わす会話とその時の主人公の心理描写だ。言っていることとやっていることが裏腹であっけらかんと食べ続ける女性と、支払いを気にして今にも気絶しそうな主人公との掛け合いが面白い。読んでて笑いが止まらなかった。主人公の間合いの取り方や皮肉から女性は終始何も察さず、オーダーを続けるのである。察してほしい主人公の気持ちと行動に共感しつつも、ことごとく叶わず食事が進んでいく様子はとても可笑しい。

ちなみにこの短編にはオチがある。私はこのオチにさほど笑えなかったが、オシャレさ漂うオチである。


追記
日本語訳はこちらに収録されている模様。「モーム短篇選〈下〉」