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2016/01/21

知能検査で測れること

ドラマや映画を見ていると、"IQ200の天才"が難事件を解決したり大儲けしたりする設定に出くわすことがある。一般的に、頭の良さを表す指標としてよく知られているIQ(Intelligence quotient/知能指数)だが、年代ごとの人々のIQの分布は、平均を100、標準偏差を15とする正規分布を描くとされているから、IQ200なんて人は理論上超ド級のレアケースである(そもそも、年代別人口の50%はIQ90~110に属し、IQ130を超える人は2.2%しかいない)。それはさておき、先日、学校で誰かのIQを測定(知能検査)してこいという課題が出た。誰かのよりも私のIQが知りたいのに…という気持ちを抑えつつ友人に受検してもらったところ、受検者の感想を聞いたり、回答を分析したりするのはけっこう楽しく、いろいろな発見があった。

ところで、IQはどうやって測るのだろうか。大人のIQを測定するときによく用いられるのは、WAIS(ウェクスラー成人知能検査)と呼ばれる知能検査である。WAISは、Wechsler, D. というアメリカの心理学者によって1939年に開発された知能検査で、時代とともに何度か改訂され現在も使用されている。今回の課題で使用したのは、WAIS-Ⅲである。WAIS-Ⅲには、14種類の下位検査が含まれている。下位検査は、言語性検査と動作性検査の2つに大別され、それぞれの検査に7種類の検査がある。言語性検査とは、文字や言語を用いた課題に言語で応答してもらう検査で、単語の意味を問う課題や暗算課題,読み上げられた数字の復唱や逆唱などが含まれる。動作性検査とは、図版や記号を用いて簡単な手の操作で応答してもらう検査で、数字と記号を書き写す課題や提示された絵を話の流れに沿って並び替える課題、ピースを組み合わせて1つの形を作る課題などが含まれる。全部の検査が終了した後、マニュアルの基準に沿って受検者の回答を評価して得点化し、年代ごとに設けてある平均値と受検者の得点を比較することで、IQを算出する。

さて、今回の受検してもらった友人は、採点マニュアルの基準からそれた回答をときおりする人であった。採点マニュアルの基準からそれれば、点数はつかないので、結果的にIQも低くなることとなる。しかし、受検者になぜそういう回答になったのかを聞いてみると、それは着眼点が違っているからだったり、空間認識力が強いからだろうと考えられるからだったりで、むしろ平均的な人よりも知能が高いのではないかと思われるくらいだった。実際、回答内容もマニュアルの基準からはそれるものの、的はずれな回答というわけではなく、理解できるし、理屈も通っていた。しかし、このような能力はWAISでは測定できないしIQにも反映されない。

WAISの開発者であるWechsler, D. (1944) は知能を、”知能とは、目的的に行動し、合理的に思考し、効率的に環境を処理する個人の相対的能力である”と定義し、この定義をもとに知能検査を開発した。
つまりWAISは、受検者がどのくらい目的的に行動し、合理的に思考し、効率的に環境を処理する能力を備えているかを測定していると言える。社会の中で他者やさまざまなものと共生していく人間にとって、彼の提示した能力は生存に有益な能力である。だから知能と捉えることができると思う。しかし同時に、知能はそれだけにとどまらないと感じる。目的からそれても、合理性や効率に欠けても、個人がこれまで生きてくるなかで身につけ発揮しているもの、特にそれが社会生活を送るうえで、また、自身で肯定していたりで適応的ならば、知能になりうるのではないか。

IQとして提示された数値が反映しているものは,あくまでも限定的な能力でしかない―それが今回の実習課題を通して学んだ最も大きなことである。

2015/12/23

ときおり、無性に聞きたくなる90年代ヴィジュアル系

小学校高学年のころから中学生にかけて、ヴィジュアル系バンドが大好きだった。好きなバンドが取り上げられている音楽雑誌を集めまくり、出演する音楽番組はすべて録画、もちろんCDやVHSもたくさん持っていた。家で曲をたくさん聴いて、オリジナルのテープを作って、休日になるとライブ映像を見て、学校ではヴィジュアル系大好きの友達と一緒に盛り上がっていた。

当時好きなバンドがいくつかあった。いちばん好きだったのはL'arc en Cielだ。ラルクを知ったのは彼らがちょうど「虹」(97年)をリリースしたころだった。hydeさんの目鼻立ちのはっきりしたセクシーな顔立ちと、独特の声にすっかり魅了されてしまった。それからデビューした頃の音源までさかのぼってたくさんたくさん曲を聴いて、いつのまにか大好きになっていた。昔にさかのぼるほどメロディは美しく幻想的になり、新しくなるほど美しいメロディに少し力強さが加わって、どちらも好きだった。「DIVE TO BLUE」(98年)以降、ラルクからは少しずつ離れてしまったが、当時懸命に覚えたたくさんの彼らの歌は未だにはっきりと頭の中に残っていて歌うことができる。ラルクのほか、黒夢、Laputa、Dir en grey、LUNASEAをよく聞いていた。紹介したい曲はたくさんあるが、全部貼るわけにもいかないので個人的に選りすぐりの曲をいくつか貼った。もしよかったら聴いてほしい。

今日こんな話をブログに書いているのは、ヴィジュアル系ファンだったころよく聞いていた彼らの音楽を、無性に聴きたくなったからだ。そういうときがたまーにある。ふと思い出したように突然聴きたくなるのだ。あれから15年超経っているわけだが、今聴いても変わらずかっこいい。昔は彼らの見て呉れも好きで、1つのバンドの中にはたいてい好みな1人がいたが、今となっては見て呉れに魅了されることはない。むしろ一部のバンドについては、ちょっと行き過ぎだろうとさえ感じる(おそらく、私の嗜好が変わったせいだろう)。そして、90年代ヴィジュアル系の曲はいまいち共感できない歌詞が多いとも感じている。というか、当時も今も思うのだが、歌詞の内容がイメージしにくいのである。いまいちピンとこない。だけど曲はやっぱりステキなのだ。音と曲の雰囲気がかっこいい。私の中では全く色あせていない。

ということで、今日はヴィジュアル系祭りを開催することにする。


L'arc en Ciel 「flower」

黒夢 「Like @ Angel」

Laputa 「Breath」


Dir en grey 「Garden」


PIERROT 「トリカゴ」

2015/12/08

Javaに翻弄されて

今期、私はJavaプログラミングの授業を履修している。「プログラミングできる人ってかっこいいなー」という単純な憧れから始めたわけだが、毎回毎回自分の書いたプログラムに翻弄されている。書いたものを実行しようと試みれば必ず毎度、「あぁ、なんでそこで止まるの!?」などと修正を余儀なくされ、1回で動いてくれることはまずない。何度かの修正でちゃんと動いてくれれば万々歳、もう打つ手がないと思ったら先生にask、とこんな調子である…。

とはいえ、プログラミングの基本中の基本のことをやっているので、私がひーひーしているプログラミング課題もそんな大掛かりなものではない(はず)。この授業は、プログラミングを全くやったことのない人でも大丈夫という内容で構成されている。コマンドプロンプトの使い方から始まり、Java言語のしくみについて少し触れ、今はコンパイル作業なしでプログラムを実行できるeclipseで書いている。プログラミングは、四則演算、条件分岐(if/switch)、繰り返し(for/while)、配列までたどり着いた。

たくさんのミスプログラミングのかいあって、私が書いたプログラムは何がまずいのかがよくよく見えてきた。プログラミングの肝がおざなりになっていることがまずいのだ。それぞれのコードが表現するものをなんとなくしか分かっていないのに加え、目的のプログラム目指してコード同士が適切につながっていないという…。おおざっぱというか、なんとなくの表現というか、緻密さとはかけ離れたものなのである。こんなところで自分の思考の特徴が露呈するとは思わなかった。それぞれのコードが表現するものは、ルールとして決まっていることだから覚えてしまえばよい。ということで覚え始め、けっこう覚えたつもりになっていたが、私の覚え方はざっくりしすぎていた。だから、あるコードが足りなくても気づかず、プログラムもちゃんと動いてくれない。なんと律儀なことか…。続いて、コード同士をうまくつなげることである。完成したプログラムを、コードのルールをもとに分解して、それらのつながりを考えていかなければならない。上に書いたとおり、そもそも最初のルールを把握する段階で失敗が起きているので、そこをパスしない限り動くことはない。まずはそこからである。ひとつひとつ丁寧に覚えたうえで練習を重ねればどうにかなるだろう。より簡潔なつながり、美しいつながりを求めるのはそのあとだろう。

自分が作ったシナリオを正直に正確に実行してくれるプログラミングは、自己反省にはもってこいである。書いてあることは実行し、書いていないことは実行しない、というのが徹底しているから、結局自分の間違いを認めざるを得ない。人間社会ではうやむやにしているちょっとした揺れやズレをプログラムは受け入れてくれない。どこまでも緻密に、論理的に思考することを求めてくる。1つの課題を完成させるまで、時間もかかるし頭もだいぶ使っている。でもその分、自分で書いたプログラムがちゃんと動いてくれるとすごく嬉しいのは確かだ。そしてまたその嬉しさを感じるために次の課題に取り組むのである。

2015/11/23

言語連想実験をやってみた

先日大学の実習で言語連想実験を行ったのだが、これがけっこうおもしろかった。言語連想実験とは、あらかじめ準備されていた刺激語(頭、水、炊く、牛など)を被験者に提示し、それぞれの刺激語から連想されることを答えてもらう、というものである。被験者がどのようなことを連想するか、答えを発するまでにどれくらい時間がかかるかなどを手がかりに、被験者のパーソナリティの特徴や内的に引っかかっている感情などを探っていく。心理学者のユングが臨床現場で用い、手法を確立した。ユング被験者の回答を分析するに際して注目したのは、反応の揺れである。他の単語よりも反応時間が遅れる、反応語を思いつけない、刺激語をそのまま繰り返して答える、刺激語を明らかに誤解する、再検査時に忘れる、同じ反応語を繰り返す、明らかに奇妙な反応をする、前の刺激語での反応を次の刺激語に反応する際に引きずる、などの反応の揺れに、被験者の無意識に潜むコンプレックス(感情複合体)が投影されていると考えるのである。


今回はじめて、実験者と被験者の両方を体験した。実験の仕方はいたって簡単。実験者は被験者に100個の刺激語を順番に提示していく。そのとき被験者は、それぞれの刺激語に対して、その言葉から連想したものを答える。深く考え込む必要はない。思ったことをそのまま言えばいいだけだ。実験者は、被験者が言ったこと(反応語)と反応時間を書き留めておく。100個全て終わったら、再生実験を行う。再生実験は、被験者が自分が発した反応語を覚えているかを問うものである。はじめに提示した100個を再度提示し、それぞれに対して自分が先ほど答えた反応語を言ってもらう。それで実験は終了である。

言語連想実験を実際に体験してみておもしろかったのは、自分がある語に対して何をどう連想し、何を声に出すかのプロセスを垣間見ることができたことである。まず実験者から刺激語を呈示されると、ほとんどの場合、その刺激語に関するイメージや経験がすぐに頭の中に広がる。自分になじみのある刺激語の場合はより早く強いイメージ、記憶に残っている経験が浮かんでくる。ちなみに、呈示される刺激語に意味の分からないものはなく、直感的に理解できる簡単な単語ばかりだった。そしてその、頭に浮かんできたイメージや経験をもとに反応語を発していく。浮かんできたイメージの特徴に関係する単語を発することもあれば(例えば、熊―茶色い)、その刺激語の内容を自分はどう感じているか(例えば、タバコ―嫌だを発した場合もあった。また、自分の経験をそのまま発したり(例えば、眼鏡―軽い。私のメガネは軽い)、単に一般的な知識として学習されたようなことを発したり(例えば、マリア―聖母)もあった。これらは、頭の中にスムーズにイメージが浮かび、ストレートに反応したものである。 

しかし、実際100個の単語で実験してみると、そうスムーズ&ストレートに反応できるものばかりではない。これがユングの重視する反応の揺れなのだろう。例えば、反応時間がほかの刺激語よりも長くかかった言葉のひとつに、「結婚式」があった。この単語を呈示されたとき、私は自分の中で激しい感情が喚起されたのを自覚した。なぜかといえば、結婚式にまつわる10年来の友人とのいざこざが原因である。このブログでも以前書いたが(http://yukiron.blogspot.jp/2015/09/blog-post.html)、そのいざこざで私は、彼女に対する怒り、呆れ、10年来の友人であるにも関わらず彼女のハレの日をお祝いしなかったことの罪悪感、これで本当によかったのだろうかという疑念など、様々なものが混ざり合った感情を体験することとなり、どっと疲れた。j実験で結婚式という刺激語を聞いたときにまず連想したのは、これらの経験だった。だから言葉で発するのに躊躇し、どう言えばいいのだろうと言葉を選んだ挙げ句、発したのは「面倒くさい」であった。私は確かにこれらの自分の感情を扱うのに手を焼いていたし、当時よりは収まったものの、未だに思い出すと不快な気分になる。 もう1つ、反応時間が長く、感情が喚起されたと自覚した刺激語は「キス」である。この言葉を聞いたとき、少し気恥ずかしい気持ちになった。これは自分のこれまでの経験や、そのときの感情が実験者に漏れ出て伝わってしまうように感じたのかなと解釈した。ちなみに、私ははにかみながら「好き」と答えた…。

一方、感情を喚起され、かつ他と比べて反応時間が短かった刺激語もあった。「こわい」と反応した、「怒鳴る」「やくざ」「怒る」「教える」「ライオン」はその最たる例である。これまでの経験や得た知識から、これらのイメージに「こわい」という感情が結びつき、自分の中に刷り込まれているから素早く反応したのだろうと思った。こわいという感情は、自らを守るために必要不可欠な感情である。自分を守るためには、こわいものを迅速に判断し、さっさと防衛反応(撤退、フリーズなど)を表出したほうがよい。また、単純に反応時間が短かったものは、「お金持ち」と「教える」という刺激語であった。それぞれ、「うらやましい」「難しい」と反応していた。どちらの刺激語も最近の私にはとても馴染み深い言葉だ。現在私は、塾で英語講師として働いており、生徒たちを高得点へと導くことの難しさを感じている。英語が苦手な子たちの苦手意識はどこから来ていて、どうしたら取り払うことができるのか、中学生に理解してもらえるくらい分かりやすく説明するにはどうしたらいいか、どうしたら英語を好きになってもらえるか、など、日々試行錯誤中である。「お金持ち」については、貯金がどんどん減っていくことにかなり危機感を抱いているからにすぎない。節約生活を送っており、お金持ちの人を見れば、うらやましいと感じるばかりである…

他に、特に感情は喚起されなかったものの、反応時間がほかより少し長めだったものもあった。例えば「パソコン」と「インターネット」である。あくまでも推測にすぎないが、自分の視界にパソコンが入っていたことが連想の妨げになり、スムーズにいかなかったためではないかと感じている。あるいは、どちらも私にとっては馴染み深く、生活の必需品と化しているがゆえにたくさんのことが連想されてしまい、発声するどれを選ぶか無意識的に迷っていたのかもしれない。「雪」という刺激語でも反応時間が遅れたのだが、これは私自身が反応語を操作したためである。「雪」と聞いた時、白い」というイメージが浮かんできたのだが、「雪」より前に呈示された刺激語で「白い」があり、そこで「雪」と反応していたため、回答に躊躇した。なんとなく、同じにしてはいけないような気がしてしまったのである(もちろん、実験にそんな縛りはない)。そこで自分の名前がゆきであることに気づき「名前」と答えた。反応した後、ぎこちなさが残ってしまっていた。ちなみに、自分が発した反応語を再生する再生実験では、「雪」に対して「白い」と発し、そのあとすぐ、そういえば最初は「名前」と答えた思い出した。最初にいろいろ考えていたことが払拭され、自然に反応してしまったのだろうここからも、「名前」が直感的に出てきた反応ではないことが分かる。


以上が、私の被験者としての反応を自分自身でざっくり分析してみたものである。専門家が見たらどのような分析をするのか、少し気になるところだ。ただ、こういうのは分析者の主観によるところも多いのだろうなと感じている。自分が対象に対して普段感じている感情はもちろん、特段意識していない感情や思い、あるいは意識的に/無意識的に隠そうとしている感情や思いを知るきっかけを、言語連想実験は与えてくれる。