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2016/02/12

本レビュー V.E.フランクル「夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録」

「夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録」を読んだ。著者であるフランクルが、第二次世界大戦下での自らの強制収容所体験を綴ったものである。この本及びフランクルは、少なくとも心理学領域では超有名で、これまでにいろんな人(特に臨床系の方々)からオススメされてきたのだが、あまり読んでみようという気持ちが沸かなくて、長いこと気にも留めていなかった。けれど昨年の夏くらいから、第二次世界大戦についての歴史番組や映画を見る機会が度々あって、それらがとても印象深かった。それで「夜と霧」も思い出し、とりあえず読んでみようと思った。

「夜と霧」についての話はいろいろなところで聞いたことがあって、読む前からだいぶ先入観ができあがっていた。人間のすばらしさを感じる、とか、生きる意味の話だ、とかそんな話を聞いてきていたので、仰々しい話なのかなという偏見があったことを自覚している。しかし実際読んでみると、仰々しい話というよりは自分が収容所で体験したことを淡々と述べ、また、自分と周囲の人々を注意深く観察することで得た、強制収容所という状況下(強制収容所に送られる前後、強制収容所での生活下、強制収容所から解放されたあと)での人の心理的変化を記述している本であった。そして、そこから得られた主張、「人が強制収容所の人間から一切をとり得るかも知れないが、しかしたった一つのもの、すなわち与えられた事態にある態度をとる人間の最後の自由、をとることはできない」(p.166)「各人はかかる状態の上でもなお、収容所において何が彼から―精神的な意味で―出てくるかということを何らかの形で決断し得るのである。すなわち典型的な「収容所囚人」になるか、あるいはここにおいてもなお人間としてとどまり、人間としての尊厳を守る一人の人間になるかという決断である」(p.167)を述べていた。主観的な体験を、極めて客観的な記述にするために気を遣っていることが十分に感じられる本でもあった。

どこまでいっても抜けられない苦しみや死に囲まれた人々が、自らの生をいかに追求しようとするかとか、何度も抱いてはその度に消されていく希望を失った人々は、どういう心理状態に陥るのかとか、強制収容所内での処世術とか、読んでいて興味をそそられる話がいくつかあった。しかし、フランクルの主張(どんな状況下でも精神は自由、状況に対してどのような態度をとるかはあなたの決断次第。)にはいささか不快感を覚えた。主張していることが間違っているとは思わない。たしかに人の精神はいつでも自由だ。だからいろいろな想像ができるし、自らを騙すことさえできる。だけど、だからといって状況の解釈を変えたり、離れたところから眺めてみたり、自らの激しい欲望や衝動と折り合いをつけることはそう容易いことではないだろう。そのあたりの話が(私の読む限り)見当たらない。フランクルは自らについて本文中で「私の性分であるオプティムズム」(p.85)と言及しているが、つまりそれは性格の問題?と言いたくなる。

性格だとしてしまうのも雑すぎるので、少し考えを巡らせてみた。もちろん推測にすぎないが、フランクルの話に出てくる、過酷極まりない状況において人間になるという決断をした人は、少なくとも、自らの状況を自らが抱えなければならないこととして向き合い、完全に受け入れた人々であったように思う。自らの意志とは関係なく、突然先の見えない壮絶な苦しさの中に放り込まれたとき、身体的にも精神的にも消耗しながら、状況を打破しようと葛藤するか、状況に身を任せることになると思う。そのとき精神は、状況に囚われたままである。しかし、状況と自分をセットとして受け入れ、その状態をデフォルトにすることができなたなら、「じゃあ自分はどうしようか、どうしたいのか」に視点をシフトさせることができるのではないか。

私の読んだ「夜と霧」(旧版)には、強制収容所関連の写真や図がたくさん掲載されていた。人がただの肉片となって積み上げられた写真は、いつ見ても心が揺さぶられる。

2016/01/21

知能検査で測れること

ドラマや映画を見ていると、"IQ200の天才"が難事件を解決したり大儲けしたりする設定に出くわすことがある。一般的に、頭の良さを表す指標としてよく知られているIQ(Intelligence quotient/知能指数)だが、年代ごとの人々のIQの分布は、平均を100、標準偏差を15とする正規分布を描くとされているから、IQ200なんて人は理論上超ド級のレアケースである(そもそも、年代別人口の50%はIQ90~110に属し、IQ130を超える人は2.2%しかいない)。それはさておき、先日、学校で誰かのIQを測定(知能検査)してこいという課題が出た。誰かのよりも私のIQが知りたいのに…という気持ちを抑えつつ友人に受検してもらったところ、受検者の感想を聞いたり、回答を分析したりするのはけっこう楽しく、いろいろな発見があった。

ところで、IQはどうやって測るのだろうか。大人のIQを測定するときによく用いられるのは、WAIS(ウェクスラー成人知能検査)と呼ばれる知能検査である。WAISは、Wechsler, D. というアメリカの心理学者によって1939年に開発された知能検査で、時代とともに何度か改訂され現在も使用されている。今回の課題で使用したのは、WAIS-Ⅲである。WAIS-Ⅲには、14種類の下位検査が含まれている。下位検査は、言語性検査と動作性検査の2つに大別され、それぞれの検査に7種類の検査がある。言語性検査とは、文字や言語を用いた課題に言語で応答してもらう検査で、単語の意味を問う課題や暗算課題,読み上げられた数字の復唱や逆唱などが含まれる。動作性検査とは、図版や記号を用いて簡単な手の操作で応答してもらう検査で、数字と記号を書き写す課題や提示された絵を話の流れに沿って並び替える課題、ピースを組み合わせて1つの形を作る課題などが含まれる。全部の検査が終了した後、マニュアルの基準に沿って受検者の回答を評価して得点化し、年代ごとに設けてある平均値と受検者の得点を比較することで、IQを算出する。

さて、今回の受検してもらった友人は、採点マニュアルの基準からそれた回答をときおりする人であった。採点マニュアルの基準からそれれば、点数はつかないので、結果的にIQも低くなることとなる。しかし、受検者になぜそういう回答になったのかを聞いてみると、それは着眼点が違っているからだったり、空間認識力が強いからだろうと考えられるからだったりで、むしろ平均的な人よりも知能が高いのではないかと思われるくらいだった。実際、回答内容もマニュアルの基準からはそれるものの、的はずれな回答というわけではなく、理解できるし、理屈も通っていた。しかし、このような能力はWAISでは測定できないしIQにも反映されない。

WAISの開発者であるWechsler, D. (1944) は知能を、”知能とは、目的的に行動し、合理的に思考し、効率的に環境を処理する個人の相対的能力である”と定義し、この定義をもとに知能検査を開発した。
つまりWAISは、受検者がどのくらい目的的に行動し、合理的に思考し、効率的に環境を処理する能力を備えているかを測定していると言える。社会の中で他者やさまざまなものと共生していく人間にとって、彼の提示した能力は生存に有益な能力である。だから知能と捉えることができると思う。しかし同時に、知能はそれだけにとどまらないと感じる。目的からそれても、合理性や効率に欠けても、個人がこれまで生きてくるなかで身につけ発揮しているもの、特にそれが社会生活を送るうえで、また、自身で肯定していたりで適応的ならば、知能になりうるのではないか。

IQとして提示された数値が反映しているものは,あくまでも限定的な能力でしかない―それが今回の実習課題を通して学んだ最も大きなことである。

2015/12/23

ときおり、無性に聞きたくなる90年代ヴィジュアル系

小学校高学年のころから中学生にかけて、ヴィジュアル系バンドが大好きだった。好きなバンドが取り上げられている音楽雑誌を集めまくり、出演する音楽番組はすべて録画、もちろんCDやVHSもたくさん持っていた。家で曲をたくさん聴いて、オリジナルのテープを作って、休日になるとライブ映像を見て、学校ではヴィジュアル系大好きの友達と一緒に盛り上がっていた。

当時好きなバンドがいくつかあった。いちばん好きだったのはL'arc en Cielだ。ラルクを知ったのは彼らがちょうど「虹」(97年)をリリースしたころだった。hydeさんの目鼻立ちのはっきりしたセクシーな顔立ちと、独特の声にすっかり魅了されてしまった。それからデビューした頃の音源までさかのぼってたくさんたくさん曲を聴いて、いつのまにか大好きになっていた。昔にさかのぼるほどメロディは美しく幻想的になり、新しくなるほど美しいメロディに少し力強さが加わって、どちらも好きだった。「DIVE TO BLUE」(98年)以降、ラルクからは少しずつ離れてしまったが、当時懸命に覚えたたくさんの彼らの歌は未だにはっきりと頭の中に残っていて歌うことができる。ラルクのほか、黒夢、Laputa、Dir en grey、LUNASEAをよく聞いていた。紹介したい曲はたくさんあるが、全部貼るわけにもいかないので個人的に選りすぐりの曲をいくつか貼った。もしよかったら聴いてほしい。

今日こんな話をブログに書いているのは、ヴィジュアル系ファンだったころよく聞いていた彼らの音楽を、無性に聴きたくなったからだ。そういうときがたまーにある。ふと思い出したように突然聴きたくなるのだ。あれから15年超経っているわけだが、今聴いても変わらずかっこいい。昔は彼らの見て呉れも好きで、1つのバンドの中にはたいてい好みな1人がいたが、今となっては見て呉れに魅了されることはない。むしろ一部のバンドについては、ちょっと行き過ぎだろうとさえ感じる(おそらく、私の嗜好が変わったせいだろう)。そして、90年代ヴィジュアル系の曲はいまいち共感できない歌詞が多いとも感じている。というか、当時も今も思うのだが、歌詞の内容がイメージしにくいのである。いまいちピンとこない。だけど曲はやっぱりステキなのだ。音と曲の雰囲気がかっこいい。私の中では全く色あせていない。

ということで、今日はヴィジュアル系祭りを開催することにする。


L'arc en Ciel 「flower」

黒夢 「Like @ Angel」

Laputa 「Breath」


Dir en grey 「Garden」


PIERROT 「トリカゴ」

2015/12/08

Javaに翻弄されて

今期、私はJavaプログラミングの授業を履修している。「プログラミングできる人ってかっこいいなー」という単純な憧れから始めたわけだが、毎回毎回自分の書いたプログラムに翻弄されている。書いたものを実行しようと試みれば必ず毎度、「あぁ、なんでそこで止まるの!?」などと修正を余儀なくされ、1回で動いてくれることはまずない。何度かの修正でちゃんと動いてくれれば万々歳、もう打つ手がないと思ったら先生にask、とこんな調子である…。

とはいえ、プログラミングの基本中の基本のことをやっているので、私がひーひーしているプログラミング課題もそんな大掛かりなものではない(はず)。この授業は、プログラミングを全くやったことのない人でも大丈夫という内容で構成されている。コマンドプロンプトの使い方から始まり、Java言語のしくみについて少し触れ、今はコンパイル作業なしでプログラムを実行できるeclipseで書いている。プログラミングは、四則演算、条件分岐(if/switch)、繰り返し(for/while)、配列までたどり着いた。

たくさんのミスプログラミングのかいあって、私が書いたプログラムは何がまずいのかがよくよく見えてきた。プログラミングの肝がおざなりになっていることがまずいのだ。それぞれのコードが表現するものをなんとなくしか分かっていないのに加え、目的のプログラム目指してコード同士が適切につながっていないという…。おおざっぱというか、なんとなくの表現というか、緻密さとはかけ離れたものなのである。こんなところで自分の思考の特徴が露呈するとは思わなかった。それぞれのコードが表現するものは、ルールとして決まっていることだから覚えてしまえばよい。ということで覚え始め、けっこう覚えたつもりになっていたが、私の覚え方はざっくりしすぎていた。だから、あるコードが足りなくても気づかず、プログラムもちゃんと動いてくれない。なんと律儀なことか…。続いて、コード同士をうまくつなげることである。完成したプログラムを、コードのルールをもとに分解して、それらのつながりを考えていかなければならない。上に書いたとおり、そもそも最初のルールを把握する段階で失敗が起きているので、そこをパスしない限り動くことはない。まずはそこからである。ひとつひとつ丁寧に覚えたうえで練習を重ねればどうにかなるだろう。より簡潔なつながり、美しいつながりを求めるのはそのあとだろう。

自分が作ったシナリオを正直に正確に実行してくれるプログラミングは、自己反省にはもってこいである。書いてあることは実行し、書いていないことは実行しない、というのが徹底しているから、結局自分の間違いを認めざるを得ない。人間社会ではうやむやにしているちょっとした揺れやズレをプログラムは受け入れてくれない。どこまでも緻密に、論理的に思考することを求めてくる。1つの課題を完成させるまで、時間もかかるし頭もだいぶ使っている。でもその分、自分で書いたプログラムがちゃんと動いてくれるとすごく嬉しいのは確かだ。そしてまたその嬉しさを感じるために次の課題に取り組むのである。