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2016/04/07

本レビュー ジョセフ・ルドゥー「エモーショナル・ブレイン」, ラリー・ヤング,ブライアン・アレグザンダー「性と愛の脳科学 新たな愛の物語」

私たちが感じたり,考えたり,行動したりするとき,脳の中ではどんなことが起こっているのか?このテーマに関する2冊の本を先学期読んだ。ジョセフ・ルドゥー著の「エモーショナル・ブレイン―情動の脳科学」と,ラリー・ヤングとブライアン・アレグザンダー共著の「性と愛の脳科学 新たな愛の物語」である。前者は,刺激を感覚器官で受け取ってから,脳内で情動が起こり,それが意識化され,行動が促される,そのしくみはどういうものなのかを著したもの,後者は,ヒトの性別はどのように作られるのか,性愛や愛情,子育て時に生じた感情や行動の裏側で脳では何が起きているのか,を著したものである。どちらも厚めで読み応えがある本だ。書かれていることを全て理解したとは到底言えないのだが,ヒトがどのように生まれついているのかを垣間見ることができた。

「エモーショナル・ブレイン」では,情動の性質と,認知との関わり,”恐怖”に関する脳内経路を学んだ。本にはいくつかの情動の性質が言及されていた。それらの性質のうち,情動の本質を捉えていると私が思うのは,自動性と生存への寄与である。生物は,何らかの刺激を環境から感覚器官が受け取ると,それに対してどう対処するかを定めるために何らかの判断を下す。そしてその判断に基づいて行動が起こされるわけだが,通常,自らの生存に有利な行動が導かれる。この判断には,脳が勝手に行うものと,自ら意識的に行うものがある。この2つのさじ加減は状況によって異なる。危機的状況では,脳が勝手に行う自動的な判断によって,とっさの行動が起こる場合もあるだろし,余裕のある状況では,ちょっと待てよと立ち止まり,準備していた行動を変えることもあるだろう。いずれにしても,判断のうち,自らがその刺激について考えるよりも早く自動的に下される判断は情動の機能といってよいと思う。ちなみに感情は,脳の勝手な判断ののち,意識上に上ってくるものである。そして,生物は生を志向しているわけだから,当然情動も私たちの生存に有利なように働いてくれている。心理学では,情動と認知との間で,情動と認知はどっちが先に働き始めるのかについての論争があったようだ。この本で両者の言い分を読んだ限りでは,この論争はつまるところ,何を情動とするのか,認知とするのかが科学者間で一致していないがゆえに決着がつかなかったんだろう,という感想である。
また著者は感情の中の恐怖に注目し,恐怖感情はどのように起こり,その後の行動へと促されていくのかを研究してきた人である。彼によれば,恐怖の脳内経路は2つに分けられる。刺激を受け取ってから情動が生じるまでの時間が短い経路(要点だけ書くと,刺激→視床→扁桃体→行動)と長い経路(刺激→視床→皮質→扁桃体→行動)である。時間の短い経路は,時間が短い分,刺激の特徴を細かく弁別したりすることはできないが,危険を感じてからそれへの対処行動をいち早く導いてくれる。一方,時間のかかる経路は,時間のかからない経路でおろそかになっていた刺激の弁別をやってくれる。そして,刺激に対する対処行動をときには制御するのである。なんとうまいこと脳はできているんだろうと,感嘆してしまう。

私たちは自分が気持ち良いと感じることをするよう動機づけられており,その感情をもたらす脳内の神経基盤は報酬系と呼ばれている。その報酬系と性欲,子育て,愛情の仕組みについて書かれているのが「性と愛の脳科学」である。その仕組みはこのブログで簡単にまとめることができないので詳細は読んで欲しいのだが,これもまた情動と同様,脳のいくつかの部位における情報伝達とそれに伴う神経伝達物質やホルモンの働きが組み合わさってもたらされたものである。またこの本には,性別が母親の胎内でどう作られるかや,浮気の原因についても記載されている。性別の形成は,発達段階において胎児がどの程度男性ホルモンのテストステロンにさらされるかによって変わってくるらしく,浮気については,おもに新奇性を追求する遺伝子の働きの強さが関係しているらしい。

私は脳の仕組みを知る度にそのシステムに圧倒されている。脳内で起こっていることは,たくさんの化学反応と電気信号の伝達にすぎない。でもそれらが私たちを生かしている。そして,それらはさまざまな感情や行動として表に現れる。それに,脳のシステムがあるから,環境や他人と関わることができる。そして,そういう一切のやりとりから脳は何かを学び,生を維持させるべく適応していく。それって本当にすごいことではないか。

2016/03/25

研究を1つ終えて

先日,ファジィ学会のワークショップで研究発表をしてきた(http://www.j-soft.org/~kanto/)。大学で私の研究のスーパーバイザーをしてくれている先生がこの学会のオーガナイザーの1人ということで,研究発表の機会を私に与えてくれた。人生初の研究発表,この日までの約半年間,構想の段階からとにかくいろいろあったが,ひとまず形として残せたことで達成感とちょっとの自信が得られた。

大学生の1つの仕事は研究することだ。講義を受けて単位をとることも仕事の1つだが,それだけでは,その学問領域でこれまでどんなことがあったのかについての少しの知識と,学士号を得るだけで終わるだろう。私の場合,大学生活は2度目だから学士号はすでに持っている。しかも誰かがやったことや考えたことというのは,本にいくらでも書いてあり,それだけ得るために大学に行く意味はあまりないのだ。幸い興味があることはあったし,人が薦めてくれたテーマもあったから,昨年度の段階で研究を始めようとした。しかし,どこから手をつけたらいいのかよく分からない,新しいことを学ぶと興味がそっちにも広がり余計収拾がつかなくなる,テーマを深掘りできない,といった問題と言う名の言い訳がポンポン現れ,さらには講義を受けて単位をとるという安易な習慣に流れ(私はこれがとても得意!),結局ろくに研究しないまま1年ちょっと過ぎてしまっていた。そんなもやもやを講義で仲良くなった先生に話したら,「じゃあ3月に研究発表しましょう」となり,それをきっかけに今回の研究がスタートすることになった。昨年の夏休みごろである。

スタートしたのはいいものの,もやもやしている状態で始めているのだから,そううまくコトは運ばない。しかし,デッドラインが決まっていたこと,たとえもやっとしたものでも先生に相談すればアドバイスをもらえたこと,そして「あんたまた逃げるの?」という自らへの脅しのおかげで,行きつ戻りつしながら方向性や研究方法が徐々に固まっていき,データ収集,データ分析を経て1つの研究が終了。そして研究結果が出揃ったかと思えば今度は,どう発表しようかと試行錯誤することとなり,ギリギリまで引っ張ってようやくレジュメが完成。発表の練習は不十分のまま本番に臨んでしまった。

研究の構想から発表までを今回経験してみて,いろいろなことに気づいた。1つの研究で解明できることは些細なことでしかないこと,なんでも研究対象になること,望ましい結果が出なくとも,それはそれで意味のある研究結果であることなど。しかしそれ以上に,自分の現在の立ち位置/レベルを把握できたことがとてもよかった。研究についてもやもやしていたころはいまいち現実感もなく甘えもあったけれど,実際にやると現実に問題がどんどん発生するし,誰も私に代わって対処してくれない。そのうえ,研究は強制されたものではなく,自分の好きなようにやることを求められ,やめることすら自由だったので,研究スキル以外の自分の能力,傾向までも突きつけられることとなった。結果として,私は何がどの程度できるのか/できないのかが浮き彫りになってしまった。でもそれは当初予期していたような痛みを伴うものではなかった。そしてこれからどうしていくのか?という問いに対して,なんというか,やっとスタートラインに到着したような気がする。

今後も研究は続けていく。今回の研究は,自分の意志で進めてきたものではあるものの,満足のいく出来ではない。結果はきちんと出ているが,構想段階での着眼点や詰めが甘かったため,自分の知りたかったことの核心から外れてしまったように感じている。次に形にする研究は,調査/実験を始める前段階を丁寧に進めたい。

2016/03/18

体が軽くなりました

昨年11月,ダイエットを始めた。ダイエット5ヶ月目の現在までに,元の体重から約10kg減った。あと数キロ減らしたい兼リバウンドしたくないとの理由から,今も継続中である。小学生のころからぽっちゃりだった(というか,体が縦にも横にも平均サイズより大きかった)私は,10代の頃から何度もダイエットしてきたが,減った体重の量,減るペース,やり方のどれをとっても今回のはこれまでで最も成功したダイエットと言える。

ダイエットを始めるきっかけはだいたい突然やってくる。これまでのダイエット経験を振り返ると,きっかけ第1位は,「太った」とか,「太っている」といった類の人からの突然の指摘である。そもそも私は体重を測るのが昔から好きじゃない。太っていると分かっているのに,何が楽しくてわざわざそれを数字で突きつけられなければならないのか。ということで,健康診断でもない限り,私が自分の体重を知ることはほとんどない。ちなみに,ここ数年の健康診断で知った体重は,嬉しいことにそれほどショックを受けるようなものではなかった。痩せてはいないがとりあえず許容範囲でまあいいか,となっていた。しかし,健康診断なんてそう頻繁にあるものではない。だから,健康診断と健康診断の間の期間は,まさに体重が好き放題に動いているということになる。今回のダイエットは,まさにこの期間に友人から「最近太ったよ」と指摘されたことに始まった。そう指摘されたものの,私自身は太ったという自覚が全くなかった。週1程度で近所のスポーツセンターで運動していたし,暴飲暴食をしているつもりもなかった。そして―これがおそらく自覚できなかった最たる理由だが―体重はある日突然どっさり増えるのではなく,徐々に増えていくのである。毎日自分の顔や体を鏡でさくっと見ているだけの私は,その日々の脂肪の積み重ねに気づけなかった。体重計を使わずしてどうしたら自分の体重を正確に把握することができようか…。結局友人に促され,嫌々体重計にのったところ,自分が想定していた体重よりも6kgも増えていた。それが昨年11月。これはホントに一大事であった。

ダイエットを始めた11月から現在まで,減量のための取り組みはほとんど変わっていない。それは,食事,運動,入浴,体重計測である。まず食事については,野菜をなるべく多く摂るようにし,1日に食べる食事の総量を減らした。ごはんを少なめにするとか,間食しないとか,チョコしばらく我慢とか,その程度である。また,食べ過ぎが気になった時はその後数回の食事量をさらに調整し,相殺できるようにした。続いて運動。これはダイエットを始める前から大きく変わっていない。週に1~2回近所のスポーツセンターに行って,脚まわりとお腹まわりと背中まわりの筋肉を鍛え,その後30分程度走る,というものだ。そして今回最も効果があったように感じられるのが入浴である。私は実家暮らしをやめてから,湯船には浸からず毎日シャワーで済ませていた。でも友人からのアドバイスに従い,毎日30分くらい湯船につかった。そうすると,体力を使うと同時に,体がとてもあたたまるようになった。おそらく代謝もよくなっていったのだと思う。そして最後は毎日の体重計測。一度体重を測ってしまうと,翌日の体重計測は全然苦ではなくなるものである。ということで,毎日体重を測っては記録している。太った,痩せたの一喜一憂は多少あるが,体重を測ることで,自分で自分を管理しなくてはいけないことを思い知らされる。
これらを続けていった結果,最初の数週間で3kgくらい落ち,その後はペースダウンして少しずつ減っていき,若干の停滞期を経て,今に至る。そう,ダイエットを始めると最初はけっこうハイペースで体重が落ちるのだが,あるとき落ちなくなることがある。今回もだし,これまでのダイエット時にもそうだった。なぜそうなるのかは分からないが,その停滞期を突破するとまた少しずつ落ちるようになる。自分の体重の推移を見る限り,今は停滞期突破後ではないかと思う。

痩せた自分を感じられることはいつだって嬉しい。自分のがんばりが報われた!という嬉しさと,私前よりキレイになった!という嬉しさがある。「太っていても私はキレイ」とは思えない人なのだ。さらに体が軽くなったことで若干動きが機敏になったし,脚まわりやお腹まわりにあった本来なくてもよい脂肪が邪魔をしなくなったことで,歩き方も変わった。いいことづくめだ。しかしここで気を抜くわけにはいかない。痩せた喜びを感じ続けられるか,はたまた「太った」とまた人から指摘されるかどうかは,私の自己管理能力にかかっている。

2016/03/09

You are not that special !

人は,自分の存在や行動について,他者が気づいている,注目していると実際以上に過大に推測する傾向があるらしい。社会心理学の分野ではこれを,「スポットライト効果」(Gilovochらによる)と呼ぶ。まさに,自らのみにスポットライトが当たり,観客の視線を集めているかのように感じられる,そんな心情である。多くの人には多かれ少なかれその傾向があるらしい。

このスポットライト効果は,いろいろな場面で経験される。私自身のことを振り返ってみれば,例えば美容院に行ったあとに友人と会ったとき。友人は自分が髪を切ったことに気づいてくれるだろうと推測するものの,当の友人は全く気づかない。がっかりである。そういえば昔こんなこともあった。私はスカートを履くのが嫌いだった。理由は,常々太いと感じていた脚を見せるのが恥ずかしいと思っていたからだが,いざ履いて出かけてみると誰もなんとも思っていないことが分かる。たしかに私も,誰かのスカートから太い脚が見えているのなんて正直どうでもいい。
日常生活で経験するスポットライト効果は,もちろん統制された実験室実験によっても示されている。Gilovochらは,自分の外見や行動の変化に対してや,自分が恥ずかしいと感じている状況においてスポットライト効果が生じていることを実証した。

ところでこのスポットライト効果,”自分がいない”という現象においても生じることが分かっている。つまり,”自分がいない”ことに対しても,他者が実際以上に気づいている,注目していると推測するのである。このこともいくつかの実験により実証されている。例えばSavitskyらは,実験参加者のうち1人に“自分がいない”条件を割り当て,他の参加者たちがその人の不在をどう認識しているかを推測させた。実験は,”自分がいない”条件の人のみが参加者たちから一時離れてまた戻る,という状況を作ることで行われた(もちろん,”自分がいない”条件の人がいないことを他の参加者にあえて意識させるようなことはしない)。そして,”自分がいない”条件の人は、「何人の人が自分がいないことに気づいたと思うか」という質問をされた。他の参加者たちは,「誰がいなくなったか」「実験でいたのは何人だったと思うか」という質問をされた。その結果,”自分がいない”条件の人は、その人の不在を実際に検出できた人数よりも多くの人が検出できると推測した。また,他の参加者たちが推測したいなくなった人の人数は,”自分がいない”条件の人に比べて少なかった。
また別の実験では,自分の不在がグループの他のメンバーに与える影響が調べられた。それは,実験参加者を5人グループに分けて課題をさせたあと,メンバーの1人を退席させて、残りの4人で心臓移植について議論させるというものだった。退席した1人は議論の様子をモニターで見ており,議論が終了したあと,退席した1人/他の4人は「自分/その人が議論に参加していたときとしなかったときで,どの程度議論が異なるか」と,「自分/その人がいなかったことが議論の雰囲気,グループの最終結論,全体的な議論に影響したか」という質問をされた。結果は,退席した人は議論に参加した人よりも,自分がいるときといないときで議論により差がでると推測し,自分がいなかったことが,グループでの最終結論と全体的な議論により大きな影響を与え,自分がいなかったことが議論の雰囲気により大きく影響したと推測していた。
以上から分かるのは,スポットライト効果は”自分がいない”ことに対しても生じ,それゆえ,自分がいないことが他人に与える影響をも過大に推測しているということである。
この不在のスポットライト効果を知ったとき,遠い昔の恥ずかしい過去を思い出した。とある職場をやめるとき,私がやめたあと職場はどうなるんだろうと心配したことがあったのだ。ひどく傲慢かつうぬぼれた態度であり,今となっては当時そんなことを考えた自分が恥ずかしい。私一人いなくなっても会社はまわるのに。これはまさしく不在のスポットライト効果の一つではないか。それが分かったところで気休めにもならないのだが。

スポットライト効果のメカニズムは,係留と調整のヒューリスティックによる説明が定説である。係留と調整のヒューリスティックとは,簡単に言えば,自分が感じているように相手も感じているだろうと思ってしまうことである。自分が体験していることや感じていることは自分にとっては鮮明で印象に残ることだ(係留点)。相手は実際に体験したり感じたりしているわけではないから,自分よりも鮮明さは落ちると考えられる(要調整)。にもかかわらず係留点からの調整がうまくいかず,その鮮明さ伴ってを相手も経験したり感じたりしているだろうと錯覚してしまうのである。また,係留と調整のヒューリスティックが働いてしまうのは,相手の感情や考えを完璧に把握することはできないからだとされている。つまり,相手が何を考え感じているかを把握するには,推測するしか方法がない。そして推測は大抵何かに基づいて行われる。それが,馴染みのある自分の経験や考え,感情なのである。

自分のことを客観的に見るのは難しい。自分のことならなおさら,見たくないものは見ないし,少しでも自信があることは過大に評価してしまう。あるいは,大したことじゃないことでも悲劇のヒロインよろしく,大げさに捉えてしまったりする。自分を客観的に見るのに困難を伴うのに,相手が自分をどう評価しているかを推測するなんてなおのこと難しいだろう。自分を過小評価する必要はない。でも,「あなたはそれほど特別じゃないのよ」と時々自分で自分を戒めないと,肥大化した自意識をもてあますことになりそうだ。

参考文献
Savitsky, K., Gilovich, T., Berger, G., & Medvec, V. H. (2003). Is our absence as conspicuous as we think? Overestimating the salience and impact of one’s absence from a group. JESP, 39, 386-392(https://goo.gl/RbcrfR