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2016/08/22

ついついしちゃう先延ばし

やらなきゃいけないことを先延ばしにするクセをどうにかしたいと思っている。いろんな策を試しては先延ばししないで済むようにしようとしているのだが,効くときは効くが効かないときは効かないといった具合で,これといった鉄板の解決策が見つからない。

そもそもなんで先延ばしにするんだろうか。それは,それがやりたいことではないからだろう。やりたいことは,意識せずともいつのまにか自然にやっているものだけど,やりたくないことを「やる」まで持っていくには,やる理由がいる。だから,頭の中で理由を作ってみるのだけど,「やる」までモチベーションを上げるほどの理由はなかなか作れるものではないと,最近つくづく感じている。「これをやったらこんないいことがあるかも」とか,「これをやらなかったらこんな悪いことが起こるかも」とか,将来起こりそうなことを想像して理由にすることが多いのだが,その未来を具体的なイメージとして想像できていないうえに,どうも遠い先に起こることのような感じがして,「やる」というところまで自分を律せないのである。

とはいえ実際,たとえ先延ばしにしていても,結局どこかのタイミングで手をつけ終わらせることが多いのだが,それは自分の内側から生じた「やるぞ」という気持ちからではなく,締切が迫っているなど,外からの圧力によるのがほとんどだ。外からの圧力も無視することはできるが,無視した場合のコストを考え,結局やるほうを選んでいる。どうせやるならさっさとやれよ,と思うのだが,これならこのくらいの時期から始めれば大丈夫だろう,といった計算ができるようになってしまっているせいか,ギリギリになるまで始めることができない。

自分の怠けグセにほとほと呆れつつ,先のばし解消に向けて2つの策を試してみた。

①先延ばししていることをやみくもに始めてみる
やりたくないことでも,それを無理にでも始めたら調子づいて進めることができるかもしれない,という理屈で何回かやってみた。四の五の言わずにとにかくやれ!ということだ。これは,書く系のことを先延ばししているときにはけっこう効くと思った。私は学校のレポートをよく先延ばしにするのだけれど,まず,レポートを書くための材料となる資料などを机の上に広げる。それらを眺めつつしばらく座っていても,そう簡単にはやる気は起こらない。だが,その資料を見て感じたこととか思ったことを適当に書き始めると,考えが整理されたりアイディアが浮かんできたりして,勢いに乗って進めることができるのである。何でもいいから書き始めるというのは,先延ばし解消に本当に効果がある。これを図書館でやろうものならなおさらである。図書館には私の気を散らすものがないうえに,周りには勉強している人がたくさんいる。なるほど,それしかやることのないような状況を作って,とりあえず始めてみるとなんとかなるものである。やはり環境統制は意志の統制よりも確実に効果がある。
この方法,書く系以外のことでも効くんだろうか。私は本を読むのもよく先延ばしする。学校に提出するレポートとは異なり,期限を守らなかったときの分かりやすい罰がないので,先延ばしされやすい傾向にある。もちろん,本を買ったり借りたりするときは読む気まんまんなのだ。でも他のやらなければならないことにかまけているうちにどんどんモチベーションが減り,どんどん先延ばされることとなる。しかも私は読むのが遅いうえ,先延ばされる本の多くは小難しい本である。とりあえず,それらの本をやみくもに読み始めてみた。するとどうだろう,眠くなってしまうではないか!脳が拒否反応を起こしているんだろうか。全然先に進まない。ということで,最初から小難しい本を読むのではなく,読みやすい本とか,好きな本とか,ネット上の記事などの,読む抵抗が低めのものを読み始め,少し勢いがついてきたら小難しい本に切り替えるという方法をとってみた。結果はまちまち。読み進めることができるときもあれば,眠くなったり,飽きたりして少し読んで断念,となるときもある。読めるときと読めないときの何が違うかは,よくわからない。読んでいた本の内容かもしれないし,自分の体調のせいもあるかもしれないし,その両方とか,全く別の要因かもしれない。とにかく変数が多すぎてなんともいえない。

②とりあえず寝る
続いてやってみたのは,とりあえず寝るという方法。やらなきゃなー,でもやりたくないなー,そういうときは寝てしまおうということだ。起きていても,もやもやするだけでやらないだろうし,寝てしまえば翌日すっきりしてやる気になるかも,と期待を込めて眠るのだ。しかも,寝てしまって時間を無駄にしちゃったから,さっさとやらなきゃ!となるかもしれない。やってみた結果,書く系,読む系どちらの先延ばしについても,全く効き目はないことが分かった。寝てしまえばごちゃごちゃ考えなくて済むし,身体は健康になるが,先延ばし解消には全然役に立たない。すっきりしたからといってやる気は起こらないし,時間を無駄にしたとは確かに思うものの,やらなきゃ!となるための切迫感が起こらない。

さて最後に,ここまでの中途半端に効果があったり,全く効果がなかった方法とは打って変わり,図らずともいつのまにか先延ばしが解消していたときのことを1つ。怒りや悔しさが,先延ばしの解消につながっていたことである。怒りや悔しさを感じたとき,私は外に出さずに自分の中でどうにか折り合いをつけようとすることが多い。たいていは一過性で,少し経てば激しい感情は収まっているのだが,そうもいかないときがある。そんなとき,そういう感情を消そうと努力しても無駄なことは経験済みなので,それを考えないようにするために,別のことをする。それで先延ばししていたことに手をつけると,意外にはかどることが分かった。

感情の喚起による先延ばしの解消は,なかなか使える方法かもしれない。そういえば以前,イライラしているときにそうじしていたらいつのまにか集中して,普段しないようなところまできれいにしてしまったことがあった。これも行き場のない感情が,益となる行動をするためのエネルギーに変わった例だが,私自身,理屈よりも感情で動きやすい人間であることをふまえると,これをうまく活用しない手はない。とすると,次なる問題は,どうやって感情を喚起させるかだ。なんらかの原因によって既に感情が喚起されているときだったら,すぐさま先延ばししていることを始めればいいが,平常時に意図的に感情を喚起させるにはどうしたらいいものか。しかも,行動へと向けることができると分かっているのは,怒りや悔しさ,イライラなどの負の感情なんだが…。今考えているのは,やる理由を考える際に,感情を喚起させられないものか,ということ。多分,考えるときに具体的,直接的な経験やイメージが想像できると,感情が喚起されるんじゃないか。とりあえずやってみることにする。

2016/08/10

本レビュー エリザベス・キューブラー・ロス「死ぬ瞬間―死とその過程について」

これから起こることが楽しみで,待ち遠しくて仕方がない―多くの人はそんな気持ちを抱いたことがあるだろう。例えば週末に旅行を予定しているとき,長年会っていなかった友人に会うとき,早くその日にならないかなと思う。でも最近,そう思うことに違和感を感じるようになった。私たち生き物は刻々と死に向かって歩みを進めているわけで,早くその日になってほしいと願うのは,自ら進んで死に近づいていくようなものじゃないか,と思ったからだ。将来に起こることが待ち遠しいとき,ただ純粋に早くそれをしたいだけだ。でも,死に近づいていくことなんだと感じてしまってからは,未来に起こることへの期待がちょっと複雑なものになってしまった。それは多分,死は私にとって恐怖で,近寄りたくないもので,考えたくないものだからだ。私は死を直視できない。

死を考えたくない,というのは今に始まったことではない。何かの本で読んだことがあるが,多くの人は思春期に,死について考えることがあるらしい。ご多分に漏れず,私も小学校高学年くらいのとき,よく死について考えていた。死んだらどうなるんだろうということをぼんやりと考えていたが,答えが見つからいばかりか,自分が死んだ後でも変わらずにどこまでも過ぎていく時間の流れを想像しては,怖くて怖くて仕方がなかった。また,高校生の頃,入院している祖父のお見舞いに行く気がなかなか起こらなかったことも,死に近づきたくない気持ちがあったからだろう。長く元気に働いていた祖父は,動くこともご飯を食べることもできなくなり,寝たきりで,身体に固定したチューブから流れてくる栄養をとっていた。しかも,目はばっちり開いていて,何かを訴えているように見えるのに,お話することはできないし,こちらからの問いかけが聞こえているかどうかもよく分からなかった。私は祖父のそんな姿を見るのが辛かった。年をとると人ってこうなってしまうのかとか,祖父は今の自分の状態をどう感じているんだろうとか,生きてるってなんだろうとか,いろいろ思うところがあった。そういうことを考え続けるのは嫌だったし,そんな祖父の姿も見たくなくて,なかなかお見舞いに行けなかった。そして最近では親である。両親ともにまだ健在だが,帰省する度に両親ともに老いていっていることを実感する。そのことを受け入れきれていない。

の著者エリザベス・キューブラー・ロスは,自身の研究を踏まえて,「死はこれまで人間にとってつねに忌むべきことであり,今後もつねにそうでありつづけるだろう」ということが分かったと述べている。それは,私たち人間が無意識のうちに,「自分にかぎって死ぬことは絶対にありえない」という基本認識をもっているからだという。だから,「つねに他人による外部からの悪意ある干渉のせい」で私たちは死ぬのであり,「自然現象や老齢のために死ぬなんて考えられない」としている。死への恐怖は普遍的なもので,それこそ自らが受容するまで私たちは死と戦い続けるのである。

エリザベス・キューブラー・ロスは,余命わずかの多くの患者から,今どういう状態で何を求めているのか,何に心を砕き,日々どんなことを考えているのかなどを聞き,1人ひとりの患者のリアルな姿を知ろうとした。そして,人間が忌むべき死とどう戦うのかを記述した。それが,5段階の死の過程である。
第1段階は,「否認と孤立」である。病気を宣告されるなどして,自分が死ぬことに直面させられたとき,だれにでも起こるのが否認である。私にそんなことあるはずないとし,自らの死を否定する。否認は,不快なことや苦痛なことに対する自己防衛反応だ。そして,この否認は死ぬ本人だけでなく,その家族や友人などの親しい人にも生じるし,その人を治療する医療スタッフの間にも起こる。周囲の人間がその人の死を否認したままその人に接するとき,その人は孤立感を深めることになる。それは,その人が体験している自らの死との戦いを周囲の人と共有することができなくなるからだ。周囲の人が死を否認するとき,その患者は元気になったふりをしたり,病気や死に関する話し合いを避けることを見出している。
第2段階は,「怒り」である。自らの死を否認し続けることができなくなったとき,患者の心には「怒り・激情・妬み・憤慨」といった感情が湧いてくる。そして「『どうして私なのか』という疑問が頭をもたげる」という。何をしても何を見ても不満を感じ,怒りの感情はあちこちに向けられる。そして怒って何かを要求する,文句を言うなどの直接的な行動のほか,一見すると怒りとは関係なさそうな間接的な行動を通して,怒りは表現される。患者が怒りの状態にあるとき,周囲の人間がするべきことは,患者から向けられた怒りを自分個人に向けられたものとして受け取らないことである。そのように受け取り,患者を説き伏せようとしたりしようものならますます怒りは増幅する。それと同時に,患者のそばにいて話を聞き,怒りを受け止めようとしていくことである。周囲の人が患者を受け入れていくことで患者は自らの怒りをしずめていくことができる。
第3段階は,「取り引き」だ。避けられないと認識した自らの死を先延ばしにするために,交渉を試みる段階である。これができたらそれ以上は望まないので,どうかそれまで延命させてほしいと願う。しかしその望みが叶っても,さらなる延命を望むのが常である。
第4段階は,「抑鬱」である。抑うつは喪失感から来るものであるとしている。喪失感を感じる原因はいろいろだが,自らの身体が思い通りに動かない,経済的な負担が増える,職を失うなどの反応的な抑鬱と,これから家族と過ごすことができなくなる,など自分の死後を考えたときにみまわれる準備的な抑鬱がある。準備的な抑鬱の段階にいる患者は,その前に経てきたどの段階よりも死に対する覚悟ができ,自らの死を落ち着いて受け止めることができるようになってきている。
そして第5段階が,「受容」である。否認や怒り,喪失感を感じる段階を経て,自らの死を静観する,感情が欠落した状態である。このとき患者は,「しだいに長い時間眠っていたいと思うようになる」としている。そして,「まわりに対する関心が薄れ」,「一人にしてほしい,せめて世間の出来事や問題には煩わされたくないと願う」という。また,周囲の人がただその患者のそばにいて黙って手を握ることは,患者にとって意味のあることとなる。
これらの5段階は,全ての人において順に進んでいくとは限らない。部分的な否認は、第2段階や第3段階でも現れるし、先に進んではまた戻ってを繰り返したり,どこかの段階でとどまったまま死を迎えたりもする。しかしいずれの段階においても,患者は生き続けられるという希望を捨てていないとエリザベス・キューブラー・ロスは述べている。

私はこれから,親しい人の死や自分の死と向き合っていくことができるんだろうか。読んだ後,そんなことを考えた。おそらくそう簡単にはできないだろう。死の過程が分かったからといって,死は依然として近づきたくないものだし,その恐怖に対処できるとは思えない。それに,死が遠い今の状況ではなおさら,恐怖である死についてわざわざ考えたりしないだろうとも思う。だけどこの本は,死と向き合えるようになるヒントを示唆していた。それは,死に対する考えや気持ちを人と共有することだ。死が迫っている患者にとっても,病院で彼らと接する医療スタッフにとっても,死に関する思いを安心して他人と共有できることが死の恐怖に対抗するために有効であった。人はやはり,一人で生きて死んでいくようには作られていないらしい。

この死の過程は,死だけでなく,死のようなとてもじゃないけど簡単には受け入れることができないようなものを受け入れざるをえないときにも起こりうる心理的変化だと思う。自分のことや他人のことを理解したいときに,この5段階を通してみるとこれまでとは違う解釈が可能かもしれない。

2016/07/24

本レビュー 岸見一郎「アドラー心理学入門」

アルフレッド・アドラー(心理学者/精神科医)に関する本が書店で平積みされているのを,数年前からよく見かけるようになった。彼の唱えた説は,ビジネスや教育場面で利用価値があるらしく,また,人生や生きることの意味を考えるときにも参考になるようだ。

アドラーのことをよく知らないので,岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために」を手始めに読んでみた。そこに書かれていたことの中で印象的だったアドラーの主張は,①人は客観的な世界には生きていない,②原因論ではなく目的論,2点である。

まず,「人は客観的な世界には生きていない」という点について。もう少し詳しく説明すると,人は誰ひとりとして同じ経験をしながら生きておらず,それぞれの人が自分の好み,関心,信念によって世界を解釈し,その中で生きているということである。このことは,体に染みつかせておきたいことである。というのも,この認識を理屈で理解するだけでなく自分のものとなっていれば,対人関係のトラブルはほぼ起こらないのではないかと思うからだ。対人関係でのトラブルは大抵,他者が自分の思った通りに動かない時に生じる。例えば恋愛において,彼/彼女は私のために時間を割いてくれないとか,例えば職場で,あの人とは仕事がしたくないとか,陰口を言われるとか…。これらの現象の根底には,相手はこう考える/こう行動すると,自分が他者の思考や行動を決定的に考えているからだと思っている。それらは,つまるところ自分の経験などから導き出された偏見で,相手の思考を正確に推測したものではない。にもかかわらず,察してくれないとか,思いやりがないとか,あいつはおかしいとか,グチが出る。それが何であろうと,相手には,相手がそうする論理/理屈がある。そして自分にも,そうする論理/理屈がある。であれば,相手のそれも少なくとも存在くらいは認めざるをえないだろう。自分と相手は違うということを前提にすれば,冷静に状況を判断し対処する準備ができる。もちろん自分の中での葛藤はあるだろうが,自分の論理/理屈を通すか,相手の論理/理屈を受け入れるかの選択も,自分の論理/理屈を通すためにどうするのが適切か,も考えられるようになるだろう。現実的かつ建設的である。

続いて,「原因論ではなく目的論」について。アドラーは,人が何か行動したとき,なぜそんな行動をしたのかではなく,その行動は何のためになされているのか,に注目する。目的論の何にそんなに惹かれたかといえば,目的論を採用すると人の行動(特に他者に対する行動)は”自己の責任”に帰せてしまうところである。自己に責任の所在を置き,それを自分で引き受けることで,未来への希望を維持できる。一方原因論で考えると,責任の所在がはっきりしないばかりか,原因を特定することができるのかどうかも不明である。
例えば,私の行動を例にとって考えてみよう。何年か前,親から食料品や生活雑貨が大量に届いて,文句を言ったことがあった。原因論的に考えてみれば(これは私が真っ先にすることだけれど),私の文句を言うという行動は,現象レベルでは,親が荷物を送ってきたからとか,荷物を片付けるスペースもないのに大量に送ってきたから,などとなる。しかしこうも考えられる。親が荷物を送ってきたことは単なるきっかけで,実はその日は朝から機嫌が悪かったのかもしれないし,疲れていたからかもしれない。または心理レベルではこうも考えられるだろう。私は親からの荷物を,それを使えという親からの要請・強制のように感じ,私の自由を無視されたように感じたから,と。今5つほど考えられる原因を出したが,結局何が真実かは分からない。どれも正しいかもしれないし,いくつかだけ正しいかもしれないし,実はどれも正しくなくて,私が認識していない理由があるのかもしれない。また,最初の2つは親に責任の所在を置き,次の2つは責任の所在が不明,最後の1つは私に責任の所在を置いている。他者に責任の所在を置くと,大抵グチが出る。
では次に見方を変えて,目的論の視点をとってみる。私が文句を言ったのは,私の○○という望みを叶えるためである,というふうに。すると,もう一つの見方ができる。私は自分が自立した人間であることを親に分かってほしいから文句を言ったのではないだろうか?
目的論で考えれば,その目的が事実なのかどうかは特定できないにしても,自分が他者に対して○○するため(他者に対する自分の欲求を満たすため)にそういう行動をしていると解釈するので,どんな解釈をしたとしても自分の欲求と向き合わざるをえなくなる。そして,自分の欲求と向き合えれば,どうやってその欲求を満たしていくか,という新しい問いを解く準備ができる。原因に注目すると,結局自らの過去を探っていくことになる。その原因を取り除ければそんな行動はしなかったとなるだろうが,起きたことは変えることができないではないか。とすると,目的論的考え方が,今や過去に固執する原因論的考え方よりも未来に対して建設的なのは明らかだ。

これらのことから,アドラーは個々人の自立を重要視していたといえる。自分と相手を異なるものとしたうえで,自分の欲求を満たすべく相手に働きかけ,行動の責任を自らが引き受ける。とどまることなく,常にダイナミックに生きる人間像が浮かんでくる。希望が湧いてくる主張ではないか。

2016/06/23

映画レビュー 「脳内ポイズンベリー」

久しぶりに邦画を見た。「脳内ポイズンベリー」原作は「脳内ポイズンベリー」同名の少女漫画。こちらは読んだことがないのだけど,映画はけっこうおもしろかった。何がおもしろかったかというと,主人公いちこの頭の中で繰り広げられる5人の議論というか戦い?である。おそらく私の頭の中で起こっていることを可視化しても,こんな感じになるのではなかろうか。

多くの人は何かを決めるとき,その決定によって起こりうるであろうことをいくつか挙げ,その中から最適なものを選び取るだろう。「脳内ポイズンベリー」が描いているのは,その最適解を選ぶまでの脳内プロセスである。いちこの脳内には5つの人格が存在しており,それぞれが主張し議論し合っていちこに決定を下させるの。5つの人格は,議長の吉田,ネガティブ池田,感情的なハトコ,ポジティブ石橋,記憶を管理する岸である。この5人が議論しすぎて疲弊すると,黒い女が場を乗っ取り,いちこに本能的な決定を下させる。心理学では,理性と感情が相互に関わりながら意思決定がなされる,というのが定石だが,5つの人格を分類するならば,理性寄りなのは吉田と池田,石橋で,感情寄りはハトコと黒い女になるだろう。ネガティブ池田とポジティブ石橋は,理屈をこねて悪い方に解釈/良い方に解釈するので,感情だけのハトコや本能の黒い女とは少し違うし,議長吉田は全員の主張をふまえて最終決定を下す立場にある。記憶の岸は理性組へのデータ提供的な位置付けである。

この頭の中のやりとりを見ていてゾッとしたのは,ネガティブ池田の人格である。ネガティブ池田はその名のとおり,基本すべてネガティブにしか考えない。だから,好意を向けている人のふとした発言も,彼の本当の意図を知ることなく悪く解釈するし,行動に伴うリスクを実際以上に高く見積もる。しかも最もらしい理屈を並べ立ててそうするからタチが悪い。ネガティブ池田が力を発揮すると,その先の思考はストップし,自分の中にひきこもることで必死に自分を守るという決定に帰結することになる。

私にはネガティブ池田の思考パターンがよく分かる。私もネガティブに考えがちだし,ひきこもっての防衛は自分がしがちな防衛パターンの1つだと認識している。しかし,1人格として客観的にネガティブ池田の理屈を眺めてみると,だんだんその人格を現実感のない,恐ろしい存在と感じるようになってきた。池田の採る,ものすごく狭い視野で,他人を拒むことによって自分を生かすという方略は,いろんな人がいる広い世界で生き,かつ他人と関わらずには生きていけない人間にとって,かなり無理がある。しかも池田は強い。すべてを破壊する。そう,負のパワーは強くて勢いがあるのだ。私の経験を振り返ってもそれは言えること。怒り,嫌悪,うらみ,ねたみ,悲しみなどから生まれるパワーはポジティブなことから生まれるパワー以上に行動を駆り立て,解消に向かって人を邁進させていく。

映画終了後思ったことは,私の中にも存在するネガティブ池田に好き勝手ふるまわせないようにしよう,ということである。