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2016/09/23

「女性的なもの」についてごちゃごちゃ

※この文章は,2016年度前期「フランス語圏文化論A」の講義に提出した最終レポートを再編集したものである。

私は今期,「女性的なもの」について考えるという講義をとっていた。講義タイトルは「フランス語圏文化論」で先生は哲学畑の人,ということで,フランス革命前後から現代までのフランスにおいて,「女性的なもの」はどう考えられていたのか,を学んだり,女性について論じたり女性解放への道を示した文献などを読んでいた。
そもそもこの講義を取ろうと思ったきっかけは,私の中で内在化している「女性的なもの」と,それとは遠い姿の自分,その「女性的なもの」にあこがれる一方で,その「女性的なもの」を毛嫌いする自分など,自己と女性像の間でごちゃごちゃが長らく続いていたからである。

数年前から,「こじらせ女子」という言葉をメディアで見かけるようになったが,この言葉の意味を知ったとき,私は共感を覚えた。「こじらせ女子」とは,ライターの雨宮まみ氏のエッセイをきっかけに話題になった言葉で,自分が女であることをこじらせている女性を指す。こじらせているとはいわば,自己に内在するあるべき女性像と,女性としての現在の自己像,そして自分がなりたいと描く女性像の間で葛藤が生じている状態だといえる。なぜ葛藤が生じるか,それは,彼女たちの意識の中には常に,他者/社会が私をどう思うかという他者視点での認知が存在するからである。他者視点での認知は,他者が実際考えていることを反映している場合もあれば,社会に蔓延する固定観念にも近い女性像を反映している場合もあるだろう。しかしそれらは,自分の捉える自己像やなりたいと描く自己像と常に一致するとは限らない。けれど,他者に認められたい,社会での自分の居場所が欲しいという,人が普遍的に抱く欲求も満たしたい。そして,他者視点で自らに内在化している女性像と自己の欲求に折り合いをつけることができなくなる。その結果として,女性として生きることになんらかの困難を感じてしまうのである。

この,自己の中に内在化している女性像は,その女性像が現実離れしていたり,固定化されてしまっている場合,非常に厄介なものになる。偏見を承知のうえで,私が思春期の頃から感じてきた「女性的なもの」を形容すると,小さい,可愛い,きれい,初心,気が利く,優しい,明るい,家事,良妻賢母,ふんわりした,男性を立てる,色気,恥じらう,弱い,といった言葉でまとめることができる。

この私の中に内在化している女性像は,講義を受けて半ば衝撃を受けたのだが,18Cにルソーが著書「エミール」の描いた女性像と大して変わらない。「エミール」においてルソーは,男性と女性の間には,自然がもたらした性に関する差異があるとした。そしてその根幹にあるのは,男性は能動的で強く女性は受動的で弱い,というものである。その差異ゆえ,男女の関係は相互依存的であり,男性の強さに女性が惹かれる,女性は男性の気に入るように生まれつき,その女性の魅力を使って男性にさらなる力を呼び起こさせる,という関係が成り立っているとしている。さらにルソーは,「女性の教育はすべて男性に関連させて考えなければならない」,「男性の気に入り,役に立ち,男性から愛され,尊敬され,男性が幼いときには育て,大きくなれば世話をやき,助言をあたえ,なぐさめ,生活を楽しく快いものにしてやる」ことがあらゆる時代における女性の義務としている。ルソーにとって女性は,常に男性の存在ありきの存在だったようである。実際,このころのフランスで女性に期待されていたことは,妻であり母であることである。女性は,男性との関係や家庭という文脈の中で捉えられ,それが当然のこととして社会に受け入れられていたのである。

フランスでは,このような女性論が蔓延していた一方で,フランス革命期,オランプ・ドゥ・グージュが女性の権利をはっきりと要求する女性の権利宣言を,人権宣言に対応させた表現を使って1792年に発表した。人権宣言は,主に男性に主眼を置いたものだったから,彼女は,女性が男性と同等の権利を有していることを訴え,社会からその権利に基づいた扱いを受けることを求めたのである。そしてそれを公に宣言することで,女性たちに1人の個人として生きることを提唱した。オランプ・ドゥ・グージュ自身は革命政府と対立して処刑されてしまうが,その後も,女性解放の運動は根絶されることなく社会で生き続け,ルソーに通じる男性ありきでの女性と,オランプ・ドゥ・グージュらに通じる,一個人としての主体的な女性を大きな柱としつつも,「女性的なもの」は多様性を帯びて捉えられるようになった。例えば19世紀に書かれた小説には,修道院出身の主婦や自らの性で稼ぐ娼婦,洗濯や造花づくりを生業とする女性などが登場し,描かれている彼女たちの性格もさまざまである。さらに,20世紀後半には,ボーヴォワールが登場する。ボーヴォワールは著書『第二の性』で,ルソーの指摘した女性の本質を否定し,これまで長い間女性に見出されてきた「女性的なもの」は,さまざまな文化装置によって作られたものとした。このころになると,自由・平等を掲げる民主主義に重きを置く時代の風潮は,矛盾に陥るため,女性の要求を無視できなくなってくる。そして,職業の自由や平等,性差別禁止などの制度が成立していくのである。

ここまで述べてきたフランスの近代以降の女性に関する社会的な状況は,日本にも当てはまる部分が多かろう。制度の上では確かに男女平等の社会になったし,自由や多様性が認められる社会にもなった。しかし,小さいころから私の中で養われた「女性的なもの」は,多様な女性像にはほど遠く、「男性に人気のある女性」が持つ特徴のようなものだった。なぜならこれらは、私がこれまでに接してきた,クラスで男子から人気の女子,テレビで見る芸能人やモデル,幸せな恋愛をする少女漫画の主人公,恋愛教本などから得たものだからである。もちろん,偏ったものしか見ていないという指摘はもっともだし、そこから作り上げたイメージなんて偏っているに決まっているだろう,と言われればそれまでだが,このような特徴を持った女性が実際男性に好かれている,という話は,探せばこれでもかというくらいあるだろう。だから,男性に内在する女性に対する一般的なイメージや期待すること,一般的に好ましいと感じられる女性像は,制度上で女性解放がなされた今も,それこそルソーの挙げていた女性像と大きく変化していないのではないかと感じていた。

私は恋愛に興味があるにも関わらず、モテるタイプでは全然なかった。だから私は長い間,こういう女性になろうとしていた。男性に好かれること(恋愛という文脈で)が,女性の本能的なものなのか,文化装置によって作られた欲望なのかは分からないけれど,私はそれを欲していたのだ。私は,私の「女」を満たすのは,男性に受け入れられることだと強く感じていたし,今でも,どんなに高い能力を身につけたとしても,仕事で成功したとしても,それは男性にしかできないことではないかと感じている。私は思春期の頃から体型にコンプレックスがあったから,外見を男性好みにすることを諦める代わりに,内面を変えようともがいた。しかし次第に,内面を変えることは,外見を変えること以上に難しく苦しいことだと分かってきた。なぜなら,弱さや感情の揺れなど,私の中で見いだせる女性っぽいとされるような特性を素直に表現することにひどく抵抗があるし,気が利くとか,初心でいるとか,男性を立てるとかは,自然にできず,それをする度に違和感や煩わしさ,強い抵抗を感じてしまっていたからだ。それで自分の中でごちゃごちゃしていた状態が続いていたのだと思う。

しかしここ数年で私のこじらせは少し落ち着いてきたように思う。それは,現実を知ったからだろう。男性にモテないけれどモテたい私とか,一般ウケする女性にはなれそうにない私とか,余計なことを考えずに自分らしくいたい私とか,自己に関する葛藤を受け入れるよう努める一方で,自らの女性性と対峙した経験やそこから生まれた考え,葛藤,克服などを記した女性たちのエッセイや雑誌記事を読むようになった。本の中の女性たちの経験からは,自分の経験や葛藤との共通性が感じられた。彼女たちの声はとてもリアルで,温かく,心強かった。さらに,男性たちはどんな女性を望んでいるのかを実際に男性の友人たちに聞いた。そうすると,当たり前といえば当たり前だが,男性たちの望むリアルな女性像は私が思っていた以上に多様で,私の抱いていた「女性的なもの」だけでは収束できないことが分かった。私の抱いている「女性的なもの」になることは,それほど重要でないと思えた。私は,時間がかかっても,数が少なくても,作りこんでいない私を受け入れてくれる男性がいることを信じるほうがいいと思うようになっていった。そしてこれもまた当たり前の話だが,体型コンプレックスは言い訳に過ぎず克服が可能であることを悟った。
と並行して、好きで努力して身につけた能力を使って今仕事していること、そしてその仕事をしている自分が好きであることも大きい。このことは、自分に対する自信を高めることに貢献していると思う。今,「私は女としてダメなんじゃないか」という,自分に課していた劣等感のようなものは色あせてきている。ようやく私は,「私は女である」という事実を,最近になってだいぶ自然に扱えるようになった。

現代は,男女平等で個人が主体的に生きられる社会である。でも,そこで生きる個人は性からは逃れられない。自分は逃れたと思ったもしても、他者からの視点には性がつきまとう。それは、男性と女性にはれっきとした差異があるし,生殖という点で互いが不可欠だからだ。それでも主体的に生きるために、まずは自分に内在化されている性に関するイメージを疑うことから始めるのがいいのかもしれない。


参考資料
雨宮まみ(2015). 「女子をこじらせて」 幻冬舎文庫
千田有紀(2009). 「女性学/男性学 (ヒューマニティーズ)」 岩波書店
井上洋子,古賀邦子,富永桂子,星乃治彦,松田昌子(2012). 「ジェンダーの西洋史」 法律文化社
講義で配布された資料および授業内容

2016/09/03

読書記 三田紀房,関達也「銀のアンカー」

「今更こんなこと言われても,もうどうにもならないじゃん!」とこの漫画を読みながら何度思ったことか。悔しいし,やりきれないし,自己嫌悪にもなるし,漫画の中の就活生たちをうらやましく思うし。読めば読むほど,私自身の就職活動を思い起こさずにはいられない「銀のアンカー」は,最後まで読み切るのがしんどかった。それもそのはず,私は新卒で入社した会社を7ヶ月でやめたからである。そしてその最大の理由は,社会のことも自分のこともろくに考えずに,よく分からないまま適当に就職活動を行って終了してしまったことにあると思っている。自分が社会に対して何ができるかなんてこれっぽっちも考えていなかったし,お金を稼ぐことがどれだけ大変かも全然分かっていなかった。完全に「働く」ということを舐めていた。

『銀のアンカー』は,大学生の就職活動を描いている。それも,自分が何をしたいのか分からない,就職活動をどこから始めたらいいのか分からない,ごく普通の大学生たちの就職活動である。彼らが,凄腕ヘッドハンダーから指南を受けて社会を知り,自分を知り,企業を知って自らが向かう道を定め,書類選考,面接を突破して,内定を勝ち取り社会に出るまでの足取りを,実践的なアドバイスと実践例を出しながら描いている。

この漫画には,「これ私じゃん!」と感じる大学生がたくさん登場した。例えば,就職活動しなきゃいけないと思っているけど,就職したくないし,どうしたらいいか分からないしと,もんもんとしてなかなか行動を起こせない大学生。仕事に対して現実離れした夢を見て,企業からの情報はすぐ鵜呑みにしてしまう大学生。社会の現実と向き合わず,社会に蔓延するずるさや汚さを嫌悪して,自分の信じるきれいごとを並べる大学生。どれもこれも私じゃないかと,読んでいてうんざりするほどだった。
就職活動をしているときの私はまさにこんな感じだった。親からは,「卒業したら就職しなくてどうするんだ」と散々言われ,周りの友達も就職活動をしているのを見て,「あぁ,私も就職活動しなきゃいけないのか」と思って,人より出遅れて就職活動を始めた。そして見よう見まねでやった自己分析。自分の過去を掘り下げて,いろいろな経験を思い出してみたけれど,私には自分が何をしたいのか,どう生きたいのかが見えてこなかった。いや,というよりも,見えてきたことは見えてきた。しかしそれはどこか嘘っぽく,無理に作ったものっぽく,自分の心からの気持ちを反映しているようには到底感じられなかった。そんな状態だから私は見境なくいろいろな企業を受けていた。そしてその度に,自分でもよく分かっていない志望理由を書き続けていた。

こんなことになった理由は,明らかである。私は社会を知ることを怠ったのだ。自分は何をしてきたのか,自分は何をしたいのか,それはそれなりに考えていたが,私は自分しか見ていなかった。社会の中の自分,他人と共生する自分という視点から自分を捉えることが全くなかった。自分を社会の一員として捉えて自己分析をすることの必要性は,漫画の中でも描かれている。凄腕ヘッドハンターは,鏡の部分がすっぽり抜ける手鏡を大学生に渡し,最初に鏡に自分の顔を映させた後,鏡の部分を抜き取り,そこから社会を見るように促す。そして,自分が社会とどう関わっていくかを考えることが自己分析だと説くのである。

さらにもう1つ理由がある。私は社会だけでなく,業種,職種,企業について調べることを怠った。漫画には,普段店で目にする商品やサービスを扱う業種にしか学生は目を向けないと描かれていたが,私もそうだった。BtoB取引をメインに展開する業種など,全然頭になく,自分が当時知っていた商品やサービスを扱う企業ばかりを狙っていた。しかも,業界ごとの給与額も調べなかった。漫画では,業界ごとに給与に差があるという事実を知っておくべきこととして描いているが,当時の私は「高ければいいなー。でもそれよりやりたいことやれるかが重要」などと悠長かつ夢物語を宣い,お金に全く敏感ではなかった。お金の重みを理解し,どうしてもやりたいことがなかったことを実感している今なら,当時の私がいかにばかげた考えを持っていたかが分かる。
さらに漫画では,営業職について大学生に考えさせるというエピソードがあった。ここでも私は漫画の大学生と同様だった。営業職を,ノルマや積極性や媚を売ることと,と決めつけて,自分には向いてないししたくないからと最初から除外した。もちろん営業ではノルマも積極性も媚を売ることも必要だろうが,それだけで成り立つわけではない。そもそもそれだけしか持ちあわせていない営業マンに企業も個人も金を出さないだろう。冷静に考えれば分かることなのに,私はそんなことを考えようともしなかった。
業種や職種についてだけでなく,企業をどのように調べるかも漫画で扱われている。企業を知るのに最も有効なのはOB訪問とのことである。企業が開催するセミナーや企業のホームページ,パンフレットでは,企業は基本見せたい情報しか学生に提供しない。それらだけから実際に企業で働く自分の姿を想像すると,確実に入社後ギャップを感じることだろう。だから,企業で実際に働く人に個人的に話を聞くことが重要なのである。その話から,自分がその企業で働く具体的なイメージを考え,企業ごとにそれらを比較する。そうして初めて,入社後スムーズに企業に適応することができるのだ。私は就職活動時,学校でもOB訪問しろと言われていたし,周りにもそうしている友人がいたにも関わらず,「面倒くさいから」,「そんなことしなくてもいろいろ情報集められるし」と思ってしなかった。確かにいろいろな情報を集めることはできた。しかし今振り返れば,それらの情報は,自分の就職を考えるということにおいて,本当に価値があった情報だったとはいえない。私は会社にとって都合のいい情報,自分にとって都合のいい情報しか見ていなかった。そして見ていた企業の数も少なかったから,企業を判断する目も養われていなかった。そんな状態では,自分が一生働きたいと思える企業と巡り会えることは奇跡に近いだろう。

こんな調子で,漫画のページをめくるたびに自らの就職活動のダメさを改めて実感させられていったわけだが,同時に,世の中の大学生たちは私と同じようなことを考え,悩んでいたのかとも思った。私は就職活動中,友人たちと頻繁に連絡し合うこともなかったし,選考で知り合った就活生と情報交換することもなく,就職課に助けを求めたこともなかったから,一人で困って一人で焦っている状態だった。内定を手にしたという話が周囲から聞こえてくる度に,とれていないのは自分だけだと思い込み,自分のダメさに落ち込むだけで,大半の人が私と同様苦労しているなんて考えてもみなかった。漫画の中の大学生たちは,誰一人として順調に就職活動が進んでいない。みんな私と似たようなことを考え,感じ,どうにかしようともがいていた。そこは私と何ら変わるところがない。ただ私と違ったのは,彼らは一人で就職活動を行わずに,他の就活生と情報や感情を共有しながら進んでいったことと,自分がどう生きていくかを現実的に考えたことである。

漫画では,日本は「失敗したら腹切り」の文化で,キャリアアップという考え方が根付いていないゆえ,新卒での就職に失敗したら,格差社会の下の層へどんどん降りていくことになると描かれていた。たしかに,そのことは私もじわじわ実感している。人より秀でた何かがないと,転職ゼロの人たちと同等以上の市場価値にはならない。私はお金が欲しいし,自分が努力して身につけたスキルを使って人に何かを与えたい。であるならどうするか。その欲を満たすための舵取りを今すぐしなくてはならない。悔やんでばかりでは何も変わらない。

すぐに行動すること,自分には無理だと思って自分にストップをかけないこと,社会を知り,その中で自分が何をするか考えること。これらは就活生に向けたアドバイスとして漫画に描かれていたことだが,私に向けられたアドバイスでもある。くだらない理屈をこねて重い腰を上げない,自分には無理と思って及び腰になる,いつも自分が中心で社会に心を開かない,そんなことでは金銭的にも精神的にも今の満足レベル以下の満足しか待ち受けていないように思える。今やるか,さもなくば死か,くらいの勢いでないと私の望むものは手に入らないだろう。しかしそれだけでないけない。あくまでも落ち着いて冷静に。ふんばってとにかくやる,それだけだ。

2016/08/22

ついついしちゃう先延ばし

やらなきゃいけないことを先延ばしにするクセをどうにかしたいと思っている。いろんな策を試しては先延ばししないで済むようにしようとしているのだが,効くときは効くが効かないときは効かないといった具合で,これといった鉄板の解決策が見つからない。

そもそもなんで先延ばしにするんだろうか。それは,それがやりたいことではないからだろう。やりたいことは,意識せずともいつのまにか自然にやっているものだけど,やりたくないことを「やる」まで持っていくには,やる理由がいる。だから,頭の中で理由を作ってみるのだけど,「やる」までモチベーションを上げるほどの理由はなかなか作れるものではないと,最近つくづく感じている。「これをやったらこんないいことがあるかも」とか,「これをやらなかったらこんな悪いことが起こるかも」とか,将来起こりそうなことを想像して理由にすることが多いのだが,その未来を具体的なイメージとして想像できていないうえに,どうも遠い先に起こることのような感じがして,「やる」というところまで自分を律せないのである。

とはいえ実際,たとえ先延ばしにしていても,結局どこかのタイミングで手をつけ終わらせることが多いのだが,それは自分の内側から生じた「やるぞ」という気持ちからではなく,締切が迫っているなど,外からの圧力によるのがほとんどだ。外からの圧力も無視することはできるが,無視した場合のコストを考え,結局やるほうを選んでいる。どうせやるならさっさとやれよ,と思うのだが,これならこのくらいの時期から始めれば大丈夫だろう,といった計算ができるようになってしまっているせいか,ギリギリになるまで始めることができない。

自分の怠けグセにほとほと呆れつつ,先のばし解消に向けて2つの策を試してみた。

①先延ばししていることをやみくもに始めてみる
やりたくないことでも,それを無理にでも始めたら調子づいて進めることができるかもしれない,という理屈で何回かやってみた。四の五の言わずにとにかくやれ!ということだ。これは,書く系のことを先延ばししているときにはけっこう効くと思った。私は学校のレポートをよく先延ばしにするのだけれど,まず,レポートを書くための材料となる資料などを机の上に広げる。それらを眺めつつしばらく座っていても,そう簡単にはやる気は起こらない。だが,その資料を見て感じたこととか思ったことを適当に書き始めると,考えが整理されたりアイディアが浮かんできたりして,勢いに乗って進めることができるのである。何でもいいから書き始めるというのは,先延ばし解消に本当に効果がある。これを図書館でやろうものならなおさらである。図書館には私の気を散らすものがないうえに,周りには勉強している人がたくさんいる。なるほど,それしかやることのないような状況を作って,とりあえず始めてみるとなんとかなるものである。やはり環境統制は意志の統制よりも確実に効果がある。
この方法,書く系以外のことでも効くんだろうか。私は本を読むのもよく先延ばしする。学校に提出するレポートとは異なり,期限を守らなかったときの分かりやすい罰がないので,先延ばしされやすい傾向にある。もちろん,本を買ったり借りたりするときは読む気まんまんなのだ。でも他のやらなければならないことにかまけているうちにどんどんモチベーションが減り,どんどん先延ばされることとなる。しかも私は読むのが遅いうえ,先延ばされる本の多くは小難しい本である。とりあえず,それらの本をやみくもに読み始めてみた。するとどうだろう,眠くなってしまうではないか!脳が拒否反応を起こしているんだろうか。全然先に進まない。ということで,最初から小難しい本を読むのではなく,読みやすい本とか,好きな本とか,ネット上の記事などの,読む抵抗が低めのものを読み始め,少し勢いがついてきたら小難しい本に切り替えるという方法をとってみた。結果はまちまち。読み進めることができるときもあれば,眠くなったり,飽きたりして少し読んで断念,となるときもある。読めるときと読めないときの何が違うかは,よくわからない。読んでいた本の内容かもしれないし,自分の体調のせいもあるかもしれないし,その両方とか,全く別の要因かもしれない。とにかく変数が多すぎてなんともいえない。

②とりあえず寝る
続いてやってみたのは,とりあえず寝るという方法。やらなきゃなー,でもやりたくないなー,そういうときは寝てしまおうということだ。起きていても,もやもやするだけでやらないだろうし,寝てしまえば翌日すっきりしてやる気になるかも,と期待を込めて眠るのだ。しかも,寝てしまって時間を無駄にしちゃったから,さっさとやらなきゃ!となるかもしれない。やってみた結果,書く系,読む系どちらの先延ばしについても,全く効き目はないことが分かった。寝てしまえばごちゃごちゃ考えなくて済むし,身体は健康になるが,先延ばし解消には全然役に立たない。すっきりしたからといってやる気は起こらないし,時間を無駄にしたとは確かに思うものの,やらなきゃ!となるための切迫感が起こらない。

さて最後に,ここまでの中途半端に効果があったり,全く効果がなかった方法とは打って変わり,図らずともいつのまにか先延ばしが解消していたときのことを1つ。怒りや悔しさが,先延ばしの解消につながっていたことである。怒りや悔しさを感じたとき,私は外に出さずに自分の中でどうにか折り合いをつけようとすることが多い。たいていは一過性で,少し経てば激しい感情は収まっているのだが,そうもいかないときがある。そんなとき,そういう感情を消そうと努力しても無駄なことは経験済みなので,それを考えないようにするために,別のことをする。それで先延ばししていたことに手をつけると,意外にはかどることが分かった。

感情の喚起による先延ばしの解消は,なかなか使える方法かもしれない。そういえば以前,イライラしているときにそうじしていたらいつのまにか集中して,普段しないようなところまできれいにしてしまったことがあった。これも行き場のない感情が,益となる行動をするためのエネルギーに変わった例だが,私自身,理屈よりも感情で動きやすい人間であることをふまえると,これをうまく活用しない手はない。とすると,次なる問題は,どうやって感情を喚起させるかだ。なんらかの原因によって既に感情が喚起されているときだったら,すぐさま先延ばししていることを始めればいいが,平常時に意図的に感情を喚起させるにはどうしたらいいものか。しかも,行動へと向けることができると分かっているのは,怒りや悔しさ,イライラなどの負の感情なんだが…。今考えているのは,やる理由を考える際に,感情を喚起させられないものか,ということ。多分,考えるときに具体的,直接的な経験やイメージが想像できると,感情が喚起されるんじゃないか。とりあえずやってみることにする。

2016/08/10

本レビュー エリザベス・キューブラー・ロス「死ぬ瞬間―死とその過程について」

これから起こることが楽しみで,待ち遠しくて仕方がない―多くの人はそんな気持ちを抱いたことがあるだろう。例えば週末に旅行を予定しているとき,長年会っていなかった友人に会うとき,早くその日にならないかなと思う。でも最近,そう思うことに違和感を感じるようになった。私たち生き物は刻々と死に向かって歩みを進めているわけで,早くその日になってほしいと願うのは,自ら進んで死に近づいていくようなものじゃないか,と思ったからだ。将来に起こることが待ち遠しいとき,ただ純粋に早くそれをしたいだけだ。でも,死に近づいていくことなんだと感じてしまってからは,未来に起こることへの期待がちょっと複雑なものになってしまった。それは多分,死は私にとって恐怖で,近寄りたくないもので,考えたくないものだからだ。私は死を直視できない。

死を考えたくない,というのは今に始まったことではない。何かの本で読んだことがあるが,多くの人は思春期に,死について考えることがあるらしい。ご多分に漏れず,私も小学校高学年くらいのとき,よく死について考えていた。死んだらどうなるんだろうということをぼんやりと考えていたが,答えが見つからいばかりか,自分が死んだ後でも変わらずにどこまでも過ぎていく時間の流れを想像しては,怖くて怖くて仕方がなかった。また,高校生の頃,入院している祖父のお見舞いに行く気がなかなか起こらなかったことも,死に近づきたくない気持ちがあったからだろう。長く元気に働いていた祖父は,動くこともご飯を食べることもできなくなり,寝たきりで,身体に固定したチューブから流れてくる栄養をとっていた。しかも,目はばっちり開いていて,何かを訴えているように見えるのに,お話することはできないし,こちらからの問いかけが聞こえているかどうかもよく分からなかった。私は祖父のそんな姿を見るのが辛かった。年をとると人ってこうなってしまうのかとか,祖父は今の自分の状態をどう感じているんだろうとか,生きてるってなんだろうとか,いろいろ思うところがあった。そういうことを考え続けるのは嫌だったし,そんな祖父の姿も見たくなくて,なかなかお見舞いに行けなかった。そして最近では親である。両親ともにまだ健在だが,帰省する度に両親ともに老いていっていることを実感する。そのことを受け入れきれていない。

の著者エリザベス・キューブラー・ロスは,自身の研究を踏まえて,「死はこれまで人間にとってつねに忌むべきことであり,今後もつねにそうでありつづけるだろう」ということが分かったと述べている。それは,私たち人間が無意識のうちに,「自分にかぎって死ぬことは絶対にありえない」という基本認識をもっているからだという。だから,「つねに他人による外部からの悪意ある干渉のせい」で私たちは死ぬのであり,「自然現象や老齢のために死ぬなんて考えられない」としている。死への恐怖は普遍的なもので,それこそ自らが受容するまで私たちは死と戦い続けるのである。

エリザベス・キューブラー・ロスは,余命わずかの多くの患者から,今どういう状態で何を求めているのか,何に心を砕き,日々どんなことを考えているのかなどを聞き,1人ひとりの患者のリアルな姿を知ろうとした。そして,人間が忌むべき死とどう戦うのかを記述した。それが,5段階の死の過程である。
第1段階は,「否認と孤立」である。病気を宣告されるなどして,自分が死ぬことに直面させられたとき,だれにでも起こるのが否認である。私にそんなことあるはずないとし,自らの死を否定する。否認は,不快なことや苦痛なことに対する自己防衛反応だ。そして,この否認は死ぬ本人だけでなく,その家族や友人などの親しい人にも生じるし,その人を治療する医療スタッフの間にも起こる。周囲の人間がその人の死を否認したままその人に接するとき,その人は孤立感を深めることになる。それは,その人が体験している自らの死との戦いを周囲の人と共有することができなくなるからだ。周囲の人が死を否認するとき,その患者は元気になったふりをしたり,病気や死に関する話し合いを避けることを見出している。
第2段階は,「怒り」である。自らの死を否認し続けることができなくなったとき,患者の心には「怒り・激情・妬み・憤慨」といった感情が湧いてくる。そして「『どうして私なのか』という疑問が頭をもたげる」という。何をしても何を見ても不満を感じ,怒りの感情はあちこちに向けられる。そして怒って何かを要求する,文句を言うなどの直接的な行動のほか,一見すると怒りとは関係なさそうな間接的な行動を通して,怒りは表現される。患者が怒りの状態にあるとき,周囲の人間がするべきことは,患者から向けられた怒りを自分個人に向けられたものとして受け取らないことである。そのように受け取り,患者を説き伏せようとしたりしようものならますます怒りは増幅する。それと同時に,患者のそばにいて話を聞き,怒りを受け止めようとしていくことである。周囲の人が患者を受け入れていくことで患者は自らの怒りをしずめていくことができる。
第3段階は,「取り引き」だ。避けられないと認識した自らの死を先延ばしにするために,交渉を試みる段階である。これができたらそれ以上は望まないので,どうかそれまで延命させてほしいと願う。しかしその望みが叶っても,さらなる延命を望むのが常である。
第4段階は,「抑鬱」である。抑うつは喪失感から来るものであるとしている。喪失感を感じる原因はいろいろだが,自らの身体が思い通りに動かない,経済的な負担が増える,職を失うなどの反応的な抑鬱と,これから家族と過ごすことができなくなる,など自分の死後を考えたときにみまわれる準備的な抑鬱がある。準備的な抑鬱の段階にいる患者は,その前に経てきたどの段階よりも死に対する覚悟ができ,自らの死を落ち着いて受け止めることができるようになってきている。
そして第5段階が,「受容」である。否認や怒り,喪失感を感じる段階を経て,自らの死を静観する,感情が欠落した状態である。このとき患者は,「しだいに長い時間眠っていたいと思うようになる」としている。そして,「まわりに対する関心が薄れ」,「一人にしてほしい,せめて世間の出来事や問題には煩わされたくないと願う」という。また,周囲の人がただその患者のそばにいて黙って手を握ることは,患者にとって意味のあることとなる。
これらの5段階は,全ての人において順に進んでいくとは限らない。部分的な否認は、第2段階や第3段階でも現れるし、先に進んではまた戻ってを繰り返したり,どこかの段階でとどまったまま死を迎えたりもする。しかしいずれの段階においても,患者は生き続けられるという希望を捨てていないとエリザベス・キューブラー・ロスは述べている。

私はこれから,親しい人の死や自分の死と向き合っていくことができるんだろうか。読んだ後,そんなことを考えた。おそらくそう簡単にはできないだろう。死の過程が分かったからといって,死は依然として近づきたくないものだし,その恐怖に対処できるとは思えない。それに,死が遠い今の状況ではなおさら,恐怖である死についてわざわざ考えたりしないだろうとも思う。だけどこの本は,死と向き合えるようになるヒントを示唆していた。それは,死に対する考えや気持ちを人と共有することだ。死が迫っている患者にとっても,病院で彼らと接する医療スタッフにとっても,死に関する思いを安心して他人と共有できることが死の恐怖に対抗するために有効であった。人はやはり,一人で生きて死んでいくようには作られていないらしい。

この死の過程は,死だけでなく,死のようなとてもじゃないけど簡単には受け入れることができないようなものを受け入れざるをえないときにも起こりうる心理的変化だと思う。自分のことや他人のことを理解したいときに,この5段階を通してみるとこれまでとは違う解釈が可能かもしれない。

2016/07/24

本レビュー 岸見一郎「アドラー心理学入門」

アルフレッド・アドラー(心理学者/精神科医)に関する本が書店で平積みされているのを,数年前からよく見かけるようになった。彼の唱えた説は,ビジネスや教育場面で利用価値があるらしく,また,人生や生きることの意味を考えるときにも参考になるようだ。

アドラーのことをよく知らないので,岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために」を手始めに読んでみた。そこに書かれていたことの中で印象的だったアドラーの主張は,①人は客観的な世界には生きていない,②原因論ではなく目的論,2点である。

まず,「人は客観的な世界には生きていない」という点について。もう少し詳しく説明すると,人は誰ひとりとして同じ経験をしながら生きておらず,それぞれの人が自分の好み,関心,信念によって世界を解釈し,その中で生きているということである。このことは,体に染みつかせておきたいことである。というのも,この認識を理屈で理解するだけでなく自分のものとなっていれば,対人関係のトラブルはほぼ起こらないのではないかと思うからだ。対人関係でのトラブルは大抵,他者が自分の思った通りに動かない時に生じる。例えば恋愛において,彼/彼女は私のために時間を割いてくれないとか,例えば職場で,あの人とは仕事がしたくないとか,陰口を言われるとか…。これらの現象の根底には,相手はこう考える/こう行動すると,自分が他者の思考や行動を決定的に考えているからだと思っている。それらは,つまるところ自分の経験などから導き出された偏見で,相手の思考を正確に推測したものではない。にもかかわらず,察してくれないとか,思いやりがないとか,あいつはおかしいとか,グチが出る。それが何であろうと,相手には,相手がそうする論理/理屈がある。そして自分にも,そうする論理/理屈がある。であれば,相手のそれも少なくとも存在くらいは認めざるをえないだろう。自分と相手は違うということを前提にすれば,冷静に状況を判断し対処する準備ができる。もちろん自分の中での葛藤はあるだろうが,自分の論理/理屈を通すか,相手の論理/理屈を受け入れるかの選択も,自分の論理/理屈を通すためにどうするのが適切か,も考えられるようになるだろう。現実的かつ建設的である。

続いて,「原因論ではなく目的論」について。アドラーは,人が何か行動したとき,なぜそんな行動をしたのかではなく,その行動は何のためになされているのか,に注目する。目的論の何にそんなに惹かれたかといえば,目的論を採用すると人の行動(特に他者に対する行動)は”自己の責任”に帰せてしまうところである。自己に責任の所在を置き,それを自分で引き受けることで,未来への希望を維持できる。一方原因論で考えると,責任の所在がはっきりしないばかりか,原因を特定することができるのかどうかも不明である。
例えば,私の行動を例にとって考えてみよう。何年か前,親から食料品や生活雑貨が大量に届いて,文句を言ったことがあった。原因論的に考えてみれば(これは私が真っ先にすることだけれど),私の文句を言うという行動は,現象レベルでは,親が荷物を送ってきたからとか,荷物を片付けるスペースもないのに大量に送ってきたから,などとなる。しかしこうも考えられる。親が荷物を送ってきたことは単なるきっかけで,実はその日は朝から機嫌が悪かったのかもしれないし,疲れていたからかもしれない。または心理レベルではこうも考えられるだろう。私は親からの荷物を,それを使えという親からの要請・強制のように感じ,私の自由を無視されたように感じたから,と。今5つほど考えられる原因を出したが,結局何が真実かは分からない。どれも正しいかもしれないし,いくつかだけ正しいかもしれないし,実はどれも正しくなくて,私が認識していない理由があるのかもしれない。また,最初の2つは親に責任の所在を置き,次の2つは責任の所在が不明,最後の1つは私に責任の所在を置いている。他者に責任の所在を置くと,大抵グチが出る。
では次に見方を変えて,目的論の視点をとってみる。私が文句を言ったのは,私の○○という望みを叶えるためである,というふうに。すると,もう一つの見方ができる。私は自分が自立した人間であることを親に分かってほしいから文句を言ったのではないだろうか?
目的論で考えれば,その目的が事実なのかどうかは特定できないにしても,自分が他者に対して○○するため(他者に対する自分の欲求を満たすため)にそういう行動をしていると解釈するので,どんな解釈をしたとしても自分の欲求と向き合わざるをえなくなる。そして,自分の欲求と向き合えれば,どうやってその欲求を満たしていくか,という新しい問いを解く準備ができる。原因に注目すると,結局自らの過去を探っていくことになる。その原因を取り除ければそんな行動はしなかったとなるだろうが,起きたことは変えることができないではないか。とすると,目的論的考え方が,今や過去に固執する原因論的考え方よりも未来に対して建設的なのは明らかだ。

これらのことから,アドラーは個々人の自立を重要視していたといえる。自分と相手を異なるものとしたうえで,自分の欲求を満たすべく相手に働きかけ,行動の責任を自らが引き受ける。とどまることなく,常にダイナミックに生きる人間像が浮かんでくる。希望が湧いてくる主張ではないか。

2016/06/23

映画レビュー 「脳内ポイズンベリー」

久しぶりに邦画を見た。「脳内ポイズンベリー」原作は「脳内ポイズンベリー」同名の少女漫画。こちらは読んだことがないのだけど,映画はけっこうおもしろかった。何がおもしろかったかというと,主人公いちこの頭の中で繰り広げられる5人の議論というか戦い?である。おそらく私の頭の中で起こっていることを可視化しても,こんな感じになるのではなかろうか。

多くの人は何かを決めるとき,その決定によって起こりうるであろうことをいくつか挙げ,その中から最適なものを選び取るだろう。「脳内ポイズンベリー」が描いているのは,その最適解を選ぶまでの脳内プロセスである。いちこの脳内には5つの人格が存在しており,それぞれが主張し議論し合っていちこに決定を下させるの。5つの人格は,議長の吉田,ネガティブ池田,感情的なハトコ,ポジティブ石橋,記憶を管理する岸である。この5人が議論しすぎて疲弊すると,黒い女が場を乗っ取り,いちこに本能的な決定を下させる。心理学では,理性と感情が相互に関わりながら意思決定がなされる,というのが定石だが,5つの人格を分類するならば,理性寄りなのは吉田と池田,石橋で,感情寄りはハトコと黒い女になるだろう。ネガティブ池田とポジティブ石橋は,理屈をこねて悪い方に解釈/良い方に解釈するので,感情だけのハトコや本能の黒い女とは少し違うし,議長吉田は全員の主張をふまえて最終決定を下す立場にある。記憶の岸は理性組へのデータ提供的な位置付けである。

この頭の中のやりとりを見ていてゾッとしたのは,ネガティブ池田の人格である。ネガティブ池田はその名のとおり,基本すべてネガティブにしか考えない。だから,好意を向けている人のふとした発言も,彼の本当の意図を知ることなく悪く解釈するし,行動に伴うリスクを実際以上に高く見積もる。しかも最もらしい理屈を並べ立ててそうするからタチが悪い。ネガティブ池田が力を発揮すると,その先の思考はストップし,自分の中にひきこもることで必死に自分を守るという決定に帰結することになる。

私にはネガティブ池田の思考パターンがよく分かる。私もネガティブに考えがちだし,ひきこもっての防衛は自分がしがちな防衛パターンの1つだと認識している。しかし,1人格として客観的にネガティブ池田の理屈を眺めてみると,だんだんその人格を現実感のない,恐ろしい存在と感じるようになってきた。池田の採る,ものすごく狭い視野で,他人を拒むことによって自分を生かすという方略は,いろんな人がいる広い世界で生き,かつ他人と関わらずには生きていけない人間にとって,かなり無理がある。しかも池田は強い。すべてを破壊する。そう,負のパワーは強くて勢いがあるのだ。私の経験を振り返ってもそれは言えること。怒り,嫌悪,うらみ,ねたみ,悲しみなどから生まれるパワーはポジティブなことから生まれるパワー以上に行動を駆り立て,解消に向かって人を邁進させていく。

映画終了後思ったことは,私の中にも存在するネガティブ池田に好き勝手ふるまわせないようにしよう,ということである。