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2016/10/10

本を読むこと

先日,オンライン英会話で,読書と長生きの関係について書かれた記事を扱った(”Read Books, Live Longer?” http://well.blogs.nytimes.com/2016/08/03/read-books-live-longer/?_r=0)。記事によれば,50歳以上の3635人を12年間にわたって調査したところ,1週間に3.5時間以上本を読む人は23%,3.5時間未満の時間本を読む人は17%,全く読まない人に比べて死ぬ可能性が低いとのこと。平均すると,本を読む人は全く読まない人に比べて2年ほど長く生きていたらしい。また,新聞や定期刊行物を読む場合は,本を読む場合よりも関連が弱いようだ。もう少し詳しい内容を,と思って記事に貼られていたリンク先にとんでみたが,英語論文なうえに統計の知識がないため,理解できない。ということで,この話について意見するつもりはないのだが,読書についての振り返りと最近感じたことを書きたくなった。

最近私が読んでいる本といえばもっぱら,コミックか,研究に関わる本か,心理学/自己啓発分野の本か,女性が書いたエッセイか,といった感じだ。漫画はもちろん,楽しむために読んでいる。エッセイも,ほぼ娯楽目的と言っていいだろう。とはいえ,結果としてどちらからもいろんなことを学んでいる。コミックからは恋愛関係における人間の気持ちとか,生き方とかを,エッセイからはやはり生き方やその著者の思想,文章の書き方などを学んでいる。研究に関わる本および,心理学/自己啓発分野の本は,娯楽とはほど遠く,何かを知るため,勉強するために読むことが多い。

思い起こせば,私は本好きな子ではなかった。小さい頃,図鑑とか歴史漫画とか多少の本は家にあったものの,ほとんど読んた記憶がない。小説ですら,教科書に載っていたのくらいしか読まなかった。学校の図書館で本を借りた記憶もほとんどない。その代わりといってはなんだが,コミックはよく読んでいた。「るろうに剣心」とか「名探偵コナン」とか,「セーラームーン」とか「快感フレーズ」とか・・・。いろんな漫画をよく読んでいた。私の好きな米原万里氏がエッセイで,子供の頃小説を読むのが楽しみで,親に隠れて読みふけっていた,みたいな話をしていたことがあったが,それは私にとっては漫画を読むときの状況だ。きわどいシーンのある少女漫画(少女漫画はけっこうエロい。最近のはさらにエロさが増しているように思う)を,親に見つからないようにこそこそ読んでいた。私には本好きのいとこがいるのだが,彼女が本屋でけっこうぶ厚い推理小説を彼女の親にねだっていた傍らで,私は新刊発売予定表で発売日をチェックしたり,立ち読み可能な月刊誌の漫画をもっぱら読んでいた。漫画好きなのはその頃から変わっていない。また,米原女史やいとこのように,小説を読んで育ってこなかったからなのか,今でも小説はあまり読まない。

私は本をよく読むから,趣味を聞かれると読書と答えることがある。でもちょっと待って,趣味とは「楽しみ」だったはず。私は本を読んでいて楽しいのかな。そりゃ楽しいと思えるときもあるけれど,最近はだいぶ苦行めいてきている。特に,研究に関わる本や,心理学/自己啓発分野の本を読むのが疲れる。一体どこまで読めばいいのか。気が遠くなりそうである。何を読めばもやもやがスッキリするのかわからないし,知りたいのはそこじゃないんだよな…と思うこともよくあるし,著者が何言っているのかよく分からないことも多いし,読んだはずの内容を忘れている。その度に本をもう一度開き,あぁ,そうだったと思い出すという作業をする。なんだか,本を読んで知識を得ているはずなのに,前に進んでいる感がない。

そんなことを思っていた矢先,皮肉なことに,読んでいた別の本の言葉に救われた。遥洋子氏のエッセイ「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」の一節である。遥氏は東大の上野千鶴子のゼミで課された大量の文献を読んだ後,余計分からなくなったと上野千鶴子に訴える。すると彼女は,「忘れてしまうような文献はその程度のものです。どんどん忘れなさい,その中で覚えていられるものだけ値打ちがある。・・・」と言うのである。遥氏が一定期間に読んだ文献の量はすさまじい。それに比べたら私が読んだ量は全然たいしたことない。だけど,それでも辛さを感じていた私は,そうか,それでいいのか・・・とふと気持ちが軽くなった。

気負わず,でも手を抜かず,いつかいろんなことがスッキリする日が来ると信じて読み続けたい。

2016/10/07

ポケモンとウォーリー

技術が進歩したことで、子供のころによくやっていた遊びが今、当時とは違う形で体験できる―そんな状況に私もあやかって、スマホゲームの「ポケモンGO」と「Waldo」で遊んでいる。

ポケモンは、私にとっては、これまでの人生の中で最もはまったゲームのひとつかもしれない。ゲームボーイソフトのポケモン緑を中学生くらいのときに買ってもらい、ポケモンたちを集めてまわるのが楽しくて、一日何時間も遊んでいた日が何日もあった。攻略本も読みあさって、どこにどんなポケモンがいるか、どうやったら捕まえられるかを把握して、裏技も試したりして全種類のポケモンを集めようとがんばっていた。で、今はというと、今度はポケモンGOで全種類のポケモンを集めるべく、地道に歩きまわっている。スマホゲームになって、当時よりも大画面になって、色もついて、ポケモンたちの動きもリアルになって、しかもゲーム内のキャラクターサトシがゲーム内の町で探すのではなく、私が私の行動範囲でポケモンを探せるようになった。ポケモンを集める楽しさは年をとった今でも変わらない。

私は小さいころ、「ウォーリーを探せ」(https://www.amazon.co.jp/dp/4577005565)で遊ぶのも大好きだった。ウォーリー本を4冊くらい持っていて、ウォーリーとその仲間たちを探すだけでは飽き足らず、表紙の裏側にたくさんあった「この絵の中に宝箱はいくつあったか」、「○○をもって××している人を探せ」みたいな細かな問題にも手を出していた。で今は、スマホアプリの「Waldo」でウォーリー探しである。スマホゲームになったことで、探すのに制限時間が設けられたり、画面の大きさが小さいせいか、本よりも絵の大きさが小さくなっているけれど、ウォーリー探しはやっぱり楽しい。

このポケモンとウォーリー、その当時使っていたもので今もう一回遊んでみても、当時のように楽しさを感じるのだろうか。残念なことに、ポケモン緑もウォーリー本もどこかにいってしまっているので、実際にやってみることができない。だから想像してみるが、楽しさを確かに感じると思う。そして、懐かしさも強く感じるだろう。でも一過性のもので、長く続けることはないんじゃないかと思う。それはやはり今の私は今の技術に慣れ親しんでいて、それを好んでいるから。スマホバージョンと比較してもの足りなさを感じてしまうだろう。それに加え、今の技術でできることの中には楽しいことがわんさかある。ゲームボーイポケモンとウォーリー本は、そこでの競争に負けてしまうと思う。

技術といえば、今年何かと話題のVR。ヘッドセットをつけて、近いうちにその世界を感じてみたい。VRでウォーリーを探すのも、面白そうである。

2016/10/06

「プラダを着た悪魔」,再び

映画「プラダを着た悪魔」を最近観た。この映画を観るのは今回が2回目。最初に観たのはたしか,まだ映画館で上映していたときだったから,10年近く前になる。そのときは,映画の話は自分とは遠い世界のことで,「おしゃれだなー」,「かっこいいなー」などと能天気なほほえましい感想しか抱いていなかったと記憶しているが,今観ると,恰好の自己反省用教材だ。10年前と今との大きな差―働いた経験の有無―がそう思わせているのだろうが,特に,私の仕事への向き合い方は,アン・ハサウェイ演じるアンドレアのそれと比べると,まだまだだ。

アンドレアは仕事にどう向き合っていたのか。それは,その場にいるにふさわしい人間になるための努力をしたことと,相手が欲することをしっかり考えたうえで行動したことによく表れていると思う。記者志望の優秀なアンドレアは,ファッション雑誌編集長ミランダのアシスタント職をなめていた。それでもそれなりに一生懸命やっていた。しかし,一生懸命やっても編集長は一向に認めてくれない。それを同僚にぼやいたときに,「君は努力していない,ぐちを並べているだけ」と言われてしまう。なぜならアンドレアは,ミランダがぐうの音も出ないほど満足することを彼女に与えていなかったからである。そのときからアンドレアは変化していく。自分の意志で,今まで着ていたダサい服からおしゃれな服に着替え,ファッションセンスを磨いていく。また,ミランダから指示されたどんなことも完全的確に処理するだけでなく,そのあとミランダが何を求めるか推測して行動,推測して行動,推測して行動を何度か行い,ミランダが求める以上のことを言われる前にやっていくようになる。私もよく「仕事を一生懸命やっている」と自分で思うし,人にそう言ったりもするのだが,私の一生懸命のレベルって低いな…と。しかも,自分では十分一生懸命やっていると思っているから,それ以上のことをしようという発想も出てこない。相手は,私がしたことにどれくらい満足しているのだろう。

仕事への態度を変えたアンドレアはその後,忙しい毎日をすごく楽しんでいるようで,それがまたとても印象的だった。きっと真摯に向き合い続ければ続けるほど,その世界に深く飛び込んでしまえばしまうほど,新しい考えや他にもできることが生まれてきて,楽しくなっていくものなんだろう。中途半端に一生懸命な私が得たものは,楽さと心地よさ,そしてそこそこの楽しさだ。満足感?それもそこそこの満足感でしかない。中途半端な一生懸命はもうやめ!

2016/10/04

百聞は一見に如かず in 料理

季節ごとに1回のペースで,友人と”おうちで料理しましょう会”を開いている。かしこまった集まりでは全然ないのだが,一応この会には目的があって,それは,その季節の旬の食材を料理して食べることと,1人暮らし社会人の普段の食卓には並ばなそうな料理を作ること。キッチンを提供してくれる料理好きの友人が,毎度毎度オシャレなメニュー(イタリアン)を考えてくれるので,それを持ってみんなで買い出しし,ワインを飲みつつ,つまみを食べつつ,ゆるりと3~4品作る,というのが定番になっている。

9月の初頭,会を開いた。このときのメニューは,豆腐と野菜のサラダ,ヤリイカのカルパッチョ,鶏レバーのソテー,イタリア風ラタテュイユ。トマトやナス,みょうが,とうもろこし,ヤリイカなど,夏~初秋にかけての旬の味がたっぷりつまったちょっと贅沢なメニューだ。全部大満足の味だったが,なかでも初めてお目にかかる鶏レバーのソテーは,ホクホクでとてもおいしくて,食べている間感動しっぱなしだった。

でも,この会の魅力は旬の食材を使った美味しい料理が食べられることだけではない。もう1つの魅力は,料理のテクニックを友人から学べることだ。中心になって料理するのは友人で,私はそれを見ながらお手伝いしていく感じなのだが,実際に料理しているところをを見て,真似て一緒に作っていくのは,レシピ本や料理番組を見て作るよりも,断然わかりやすいし,やりやすいし,楽しい。

今回の会では3つ学んだ。まずは味付けの仕方。さすがイタリアン好き,友人はいろいろなホワイトビネガー,オリーブオイルを試しており,何種類か常備されている。ホワイトビネガーなんて使ったことないよ!?な私に,使い方を示してくれた。どんな食材と合うかとか,使う量とか,他の調味料とのバランスとか。次に,ヤリイカの下処理について。今回初めてイカをさばいた。イカをさばく手順と墨を出さないための方法を見につけた。そして最後に,ナスの焼き方。ナスは私も家でよく焼いたり炒めたりするのだが,これはうまい!と今ひとつ感じられていなかった。友人のやり方を見て気づいたが,どうやら焼き時間とフライパンへのナスの置き方がまずかったようだ。早速自分のやり方を改善した。

次回は初冬の頃に開催したいな。