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2016/10/29

イニシエーションと新卒研修

イニシエーションとは,特定の集団や社会でその正式な成員として承認するための儀式のことである(明鏡国語辞典より)。先日大学で,クラスメイトと先生と一緒に,私が社会人生活で経験したことを話していたときのこと,新卒で入社した某旅行会社の新入社員研修は,イニシエーション的なものだったのだと思った。

私は2008年4月に,新卒で旅行会社に入社した。私が入社した代では,新入社員研修が入社前と入社後,両方あった。入社前の研修は,その年の2月~3月(大学は春休み期間)に,都内にある研修施設を借りて,たしか3泊4日で行われ,入社後の研修はたしか,4月~5月にかけて本社内で行われた。イニシエーション的な役割があったと思ったのは,入社前の研修である。

私は入社前の研修で良い思い出がない。研修中,その会社で働きたいという気持ちは完全に萎えたし,あのような研修はもう二度と経験したくない。研修では主に,その研修までに覚えて来いと言われていた旅行関連知識の確認テスト,グループごとに旅行に関わる何かを企画して最終日に発表するというグループワーク(グループは会社が決める),早朝マラソンが行われた。研修しょっぱなからビビったことは,自分が向かっている部屋からたくさんの怒鳴り声と大きな声のあいさつが聞こえてきたことだ。要は,あいさつをきちんとしないと,研修担当の社員に怒鳴られるのである。ちなみに,きちんとというのは,私が理解する限り,声を張り上げてあいさつをすることである。部屋の中では,そのあいさつ洗礼を済ませた他の新入社員がしんとして椅子に座っていた。私はといえば,緊張と恐怖に支配されてしまい,とりあえず大きな声を出さねば,という思いであいさつし,1~2回やり直しさせられて入室を許可された。ここは軍隊なのか?と思った。そのあともなんだか不穏な空気が部屋に漂い続けた。というのも,ビビりっぱなしの新入社員に加えて,人事部のみなさんの新入社員への対応が最終日になるまで極端なほどに感情的かつ批判的だったからだ。人事部のみなさんは,私たちがあいさつがろくにできないことを叱り,嘆いた。確認テストをすれば,得点が低い新入社員はその場で名前を読み上げられて,立たされた。初日のテスト後は9割近くの新入社員が立つはめになったのだが,そのあとの説教では,すごい剣幕で私たちをまた叱り,嘆いた。人事部の女性が1人,私たちに説教しながら泣き出したのには心底びっくりした。そんな感じで研修合宿中はことあるごとに叱られ,嘆かれ,新入社員たちは緊張と恐怖と自責の中で,社員からやれと言われたことをこなすために努力することとなった。テスト勉強にグループワーク,徹夜した者も多い。そして最終日,解散となる前の全体の集まりのとき,人事部のみなさんの態度は180度変わっていた。優しい言葉にあふれ,ねぎらいモードであった。おそらくこちらが通常運転の彼らなのだと思うが,「みんなよくがんばったね」といった感じで接してくるものだから,感極まって泣く新入社員が続出である。「私たちはがんばったんだ,乗り越えたんだ」といく空気が漂い,私もいつのまにか泣いていた。

以前,友人の1人にこの話をしたら,「そういう研修あるんだよね」と言われた。人事部のみなさんの私たちへの態度が演技がかっていたのも,きっとそのシナリオどおりにやろうとしていたからなのだろう。しかし,実際に研修に参加していた当時の私はそんなことに気づくこともなく,初めての経験にただただ圧倒されてしまい,完全に会社の思惑通りに動くことになったけれども。

今改めて振り返ると,あの研修は,大学生から社会人になるためのイニシエーションだったのだろうと思う。社会人経験をした今ならなんとなく分かる,多くの大学生は生ぬるい。私もそうであった。そんな大学生を使える社会人にするために,非日常的な経験や,感動体験をさせてインパクトを与える。それで大学時代の自分と決別させ,社会人として生きること,その会社で働くことを覚悟させる,そんな意味があったのかもしれない。新卒社員研修は会社によっていろいろのようで,聞いた話によれば,研修でバンジージャンプをさせるところもあるというのだから驚きだ。

ただ,あの研修は私には合わなかったみたいだ。私にはあの研修で,社会人としての覚悟も,あの会社で働く覚悟もできなかった。感動体験をしたものの,一過性のものだったようだ。結局私は,数ヶ月後にそこの会社を去った。

2016/10/20

逆さめがね体験

世の中には,逆さめがねというものがあるらしい。この逆さめがね(正式名称はおそらく違うが),何が逆さなのかというと,このめがねをかけて見る世界が実際の世界と逆さまなのである。上下反転タイプと,左右反転タイプの2種類あって,前者をかけると上下が逆さまになった世界を,後者をかけると左右逆さまの世界を味わえる。

かけるとこんな感じ
さて,実際にめがねをかけるとこんな感じになる。めがねはけっこう大きくて重い。でも見た目はちょっと近未来っぽい感じがしなくもないか?どんな感じに見えるのかとわくわくしながらレンズに映った像を見てみると,「なんじゃこりゃー」というのが率直な感想だった。さっきまで見ていたものが,さっきとは違うところに見える。左右反転は,まだ納得できる世界。でも,上下反転となると,だんだん気持ち悪くなってくる…ちゃんと見えるようにレンズを調整しようと顔を動かしたりレンズを動かしたりするも,一向におかしさは消えない。で,やっと気づいたことは,いつもの調子で動かしてもダメじゃん!ということ。全部逆さまだから,感覚がつかめない!とりあえず,どこを見ても反転しているから,少し慣れるまで頭の中は混乱状態だった。

めがねをかけながらやってみたことは,自分の名前を書くことだ。当たり前の話だが,めがねを通して見える正しい字は,めがねを外したときに見える字と反転している。だから,めがねを通して見た字が正しくきれいに書けていたら,実際は,きれいに上下または左右が反転しているということになる。私は見事にこれをやってのけ,美しい反転文字を書いてしまった。自分が書いたものを見て書くことを頼りにすると,正しい向きの文字を書くのがひどく難しくなる。どうしても目から入ってくる情報に引きずられるからだ。だから,視覚を頼りにせずに ,自分の腕が正しい字を書くように動いているかに注意を向け,腕の動きを微調整しつつ書いていくと,正確な向きで早く字を書けるようになる。

結局私は10分くらいしか体験しなかったが,その授業を担当している先生の知人で,反転めがねをつけながら一定期間過ごした人がいるらしい。反転した世界を見ながら街中を歩くとか,電車に乗るとか,想像しただけでちょっと怖い。先生の話によれば,かけはじめたの頃はやはり大変だったようだが,徐々にその世界に慣れ,適応し,日常生活を送れるようになったとのこと。

人間はあらゆる情報を感覚器官で受け取って処理しながら生きているが,視覚情報の影響力は強い。人間の運動は,外部から受け取った情報をもとにしてなされ,視覚―運動で協応関係ができあがっている。逆さめがねをかけると,視覚情報がいつものものと全く別物になるので,それまでの視覚―運動の協応関係は崩れることになる。しかし,反転した世界もしばらくすると慣れてくる。その間,トライ&フィードバックを繰り返しつつ,視覚―運動の協応関係が再構築される。だから日常生活が送れるようになるのだろう。恐るべし,人間の適応力!

2016/10/18

エッセイライティング

英語でエッセイを書くのは,長いことかなりの重荷だった。数年前,英検1級取得とTOEFLでの高得点を目指して始めたエッセイライティング,なんとしてでも時間内にしっかりとしたエッセイを書き上げたかったのだけど,書くのに時間はかかるわ,内容は薄いわでイライラしていた。とにかく練習しなきゃと思って,エッセイの書き方の本とか英語の表現集とかも買ってみた。でもどう勉強したらいいかもよくわからず,結局続かなくて,そのまま勉強がおざなりになってしまった。でもその過程で1つ気づいたことがあった。私がちゃんとしたエッセイを書けなかったのは,英語での表現力とか,エッセイの形式に慣れていないなどの英語マター以前の問題だったのだ。つまり,何を書いたらいいか分からない,内容を練ることができていない,などの日本語で十分やれるところが問題だったのである。(エッセイは,introduction, body, conclusionという構成で作る。introductionで自らの主張の概要を書き,bodyではその主張の理由づけや詳細説明を書く。conclusionでは,introductionでの主張をパラフレーズすればよい。私はbodyを書くことができなかった。)それに気づいてからというもの,苦手意識はますます強くなり,結局英検でもTOEFLでも,ライティングはあまり得点できなかった。テストが終わってからはすっかり放置していたので,しばらくエッセイライティングをすることもなかった。

大学では,英作文の授業が開講されている。中途半端になっていたライティング,この機会にどうにかしようと思って履修してみることにした。そして,数年ぶりにエッセイを書いてみた。数年前からの苦手意識を引きずったまま授業に臨み,与えられたお題について書き始めたわけだが,書いてみるとどうだろう,数年前より明らかにスムーズに書くことができていた。もちろん,エッセイの書き方は,イギリス人の先生からレクチャーされていたわけだけど,どういうわけか,あんなに昔悩んでいたbodyの部分がけっこうすんなり進んだのである。当時の私と今の私,何が一体違うのか。人生経験も積んだし,英語力も上がった。でもそれだけじゃなくて。当時の私は正しいこと,ちゃんとしたことを書こうとしすぎていたのではないのだろうか。おかしな理由づけだと言われないように…,その理由,穴だらけと言われないように…,しっかりしたものを書かなくちゃ…,などと気負い過ぎていたような気がする。私にはもともとそういうきらいがあるうえに,ライティングの本に載っているサンプルがあまりにも優等生な回答だったからなおさらビビっていたのだと思う。だから,そのお題について一般的に言われているようなことを書きがちになっていた。でもそれは自分の経験から生まれてきたものではないから,文章が続かなかったのだろう。

授業での私は,昔あれほど気にしていたことをさして気にすることなく,自分の経験と知識から自分の意見と主張を書いていた。案外するすると出てくるもので,自分でもけっこうびっくりした。あれ,私エッセイ苦手だったんじゃなかったっけ?と。先生はエッセイに「正しい答えはない」と言っていた。それはつまり,何を書いてもいいということ。自分の主張とその主張を持つにいたった経緯(そう主張する理由)が丁寧に書かれていたら,それでOKなのだ。もう少し練習したら,エッセイへの恐怖心はほぼなくなることだろう。

2016/10/17

置いてきたもの

10/9に放送された「真田丸」を見ていた時のこと、きり(長澤まさみ)が、信繁(境雅人)に向かって放った言葉が、いたく心に響いた。

”あたしが大好きだった源二郎様はどこへ行ったの?がむしゃらで,むこうみずで,やんちゃで,賢くて明るくて,度胸があって,キラキラしていた。真田家の次男坊はどこへ行ったのよ!あたしが胸を焦がして大阪までついていった,あのときの源二郎様は。”

放送されていたのをそのまま書き取ったので、文字の使い方が脚本とは違っているかもしれないが、そこは目をつむってほしい。この言葉は、先に起こる豊臣VS徳川の戦いで、豊臣側として戦ってほしいと昔の仲間に頼まれた信繁が、自分はどうするべきか、どうしたいのか、もんもんと悩んでいたときに発せられた言葉だ。

実際このシーンは、録画したのを巻き戻して何度か見た。それで、なんでそんなに心に響いたのかを考えていた。単に物語の2人に感情移入したのか、信繁の、将来に悩む姿に共感したのか、きりの信繁への気持ちを感じ取ったのか…。いろいろ思いめぐらせて出たのは、きりが持っていた、好きな人に向かうまっすぐな好きという気持ちだと思った。なんというか、まぶしいと感じた。近頃の私はこんな気持ちになったことがあったかな、とつい自分のことを考えて、そういう気持ちを私自身どこかに置いてきてしまったように感じた。

人を好きになるというのは、本来はすごくシンプルなことのように思う。その人に出会って、その人がする何かに強く惹かれて、あこがれて、その人に近づきたいと思ってみたいな、動きや温度のあるダイナミックなものなんだと思う。ダイナミックな気持ちのありようを感じたり、それに身を任せたり。最近の私はそれよりも、人を好きになるのに理屈をこねている気がする。私の好きな人はこういう人!とか、気持ちの揺れを感じる前に学歴や職業を真っ先に気にしてしまったりとか、その人を好きな自分を人はどう思うのかを考えてしまったり。そりゃ大人になればそうなるよね、とも思う。経験を積めば、学習すれば、そうはいっても実際は…とかいう大人の事情みたいなことも出てくるし、気持ちの折り合いも上手につけられるようになる。でも、気持ちを重視して動けない、気持ちをせき止めてしまっている、そういう自分の側面に悲しさを感じもする。