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2017/06/30

「言葉」という便利で不都合な存在

先日このブログで「ユーリ!!! on ICE」が大好きだという話を書いた(http://yukiron.blogspot.jp/2017/05/on-ice.html)。あれから数ヶ月経った今もどはまりしている状態は続いていて,ユーリ関連の品々や情報,特にヴィクトルのもろもろは日に日に増えていくばかり。好きなものを愛でることがこんなにも楽しいとは…!それだけでこんなにハッピーな気分になれるとは…!アニメを見返したり,グッズを眺めたり,ユーリに関する情報を得たりする度に自分の中でいろいろな感情が喚起されるうえ,物語やキャラクターたち,はたまた自分の価値観や欲に対してまでも確認作業や発見,新しい視点の獲得が起こる。そしてそれによってまた感情が喚起される。その波みたいなものが心地よい。こういうの,今まで味わった記憶がないのですごく新鮮に感じている。

さて,そろそろ本題に話を戻そう。ユーリの話になるとつい長くなってしまうが,今日のテーマはユーリがメインではない(汗)。ではなぜこんな話をしているかというと,「ユーリ!!! on ICE」の監督である山本沙代さんが「「ユーリ!!! on ICE」公式ガイドブック『ユーリ!!! on Life』」という雑誌でこんなことを話していたからだ。以下引用。
”…いつも自分の作品では「家族」とか「恋人」のような名前がついている関係性に縛られない「絆」みたいなものをすごく大事にしていて,それを描こうと思っていたんですよね。”
この記事を読んだとき,自分と同じようなことを考えている人がいる!と思ってすごく共感した。しかも私がユーリを好きな最大の理由の1つはまさしくそれなので,こりゃ好きになって当然だなと思った。

人との関係を言葉で規定することの不都合さを感じることが私にはしばしばある。ある人が私にとってどういう存在なのかをとらえようとするとき,あるいは,その人との関係を別の誰かに伝えようとするとき,適切な言葉を見つけることが難しいのだ。たしかに社会には人と人との関係を表す言葉があふれている。「家族」,「親子」,「兄弟」,「友人」,「恋人」,「同僚」,「上司/部下」,「知り合い」,「先生」など,関係全体を表す言葉から社会的な属性を示す言葉を用いて関係を表現しようとするものまで,バリエーション豊かだ。私たちはこれらの言葉に十分なじみ,意味を理解している。だから関係をとらえるにはこれらの言葉を使えばよい。しかし私は,これらの端的で理解しやすい言葉を使うことでとりこぼされてしまうものが惜しくて仕方がない。だからいつも言葉に迷う。

言葉にすることでとりこぼされてしまうものとは何なのか。それは私の場合,相手との間にある距離感とか,相手やその関係に対するさまざまな感情とか,そういう極めてパーソナルなものである。例えば一口に「友人」といっても,どの友人とも同じ関係を築いているわけではなく,その友人ごとに歴史もあれば距離感もあるし,抱いている気持ちや期待していることも違う。「友人」という言葉でくくってしまうと,「友人」という言葉にまとわりついているイメージ・意味のせいで,パーソナルなものが全部捨象されてしまい,その人との関係が何か別のもののようになってしまう気がするのである。そして,その言葉を使って別の誰かにその人との関係を伝えようとするとき,伝えようとする相手に自分の本意を誤解されるのではないかと感じるのである。そもそも上に挙げたような関係性を表す言葉は,対社会の機能が強いように思う。だから,それらにパーソナルなことまで包含しようとすること自体,無理があるように思えないこともないのだが。

この現象はつまるところ,言葉とは何なのかということに関わっている。言語学者のフェルディナン・ド・ソシュールは,言葉をシニフィアンとシニフィエという2側面から成るものだと考えた。シニフィアンとは,言葉の記の側面だ。具体的には音とか文字とか。知覚を通してとらえられる側面ともいえる。一方,シニフィエとは言葉の意味の側面である。例えば,ブログいう言葉を読めばブログの概念やイメージが,おにぎりという言葉を聞けばおにぎりの概念やイメージが頭の中に浮かんでくるだろう。そういうのがシニフィエである。まとめると,音や文字(シニフィアン)を使って意味(シニフィエ)を表す,それが「言葉」というものである。

以上の言葉の特性を元に整理してみると,私が感じている不都合さは,シニフィアンを介して伝わるシニフィエの限界というところに行き着くと思われる。具体的には,ある言葉を使って関係性(事象)をとらえよう→その言葉のシニフィアンによってその言葉のシニフィエが喚起される→このシニフィエによって関係性(事象)の捉え直しが起こる→本来の事象とずれている,となって違和感が生じるわけである。シニフィアンはシニフィエを喚起する。だから,シニフィエを喚起されたら,そのシニフィエを通して事象は解釈される。このとき喚起されたシニフィエは,フィルターのような役割を果たしているんじゃないかと思う。とはいえ,喚起されるシニフィエも結局はシニフィアンを用いている。そうすると,またそのシニフィアンがシニフィエを喚起して…となり,結局は無限に続ていく。ジャック・ラカンのいうところの「シニフィエに対するシニフィアンの優位」とはこういうことなのではないかと思っている。

こんな話を考えていた矢先,私がもうかれこれ10年以上大好きな漫画「きみはペット」を思い出した。主人公のスミレちゃん(アラサー)は,家の前に置かれていた段ボール箱に入っていた男性(20代前半)を拾う。そして行く当てのなかった彼をペットとして飼うことにし,彼を昔飼っていた犬の名前である「モモ」と名付ける。そこから2人のご主人様―ペット関係が始まる。ご主人様―ペットの関係というと,どんなシニフィエが喚起されるだろうか。スミレちゃんとモモは,そのくくりを外してみると普通の恋人同士のように見える。でもお互いの間では,私はご主人様,僕はペットという自覚があるため,互いを恋人とは認識していないし(スミレちゃんには彼氏がいる),その自覚が足かせのようになっていたりもする。特にモモは,スミレちゃんに対して恋心のようなものを抱き始めるのだが,ペットであるということがモモのスミレちゃんに対する気持ちや行動を縛る。スミレちゃんにしても,モモの存在がスミレちゃんの中でだんだん大きくなっていくのだが,モモはペットであるという認識がスミレちゃんの気持ちや行動を縛る。そのあたりの葛藤は,読んでいるこっちをイライラさせたり切なくさせたりする。でも,2人の間には互いが互いを必要としている絶対的なつながりみたいなものが生まれていて,もはや,ご主人様ーペットというのとも,恋人というのとも,家族というのとも何か違うように私には見える。

先に山本沙代さんの発言を引用したが,私が心打たれたのは「関係性に縛られない絆」という箇所である。「ユーリ!!! on ICE」も「きみはペット」も,作品の中でそのあたりを十分に描いてくれている。私はそれが大好きだし,それは私が求めているものでもあるのだろうと思った。関係性を示す「言葉」にとらわれることなく,その人との間に感じているさまざまな気持ち,距離感,つながり,そういったものを大切にしていきたい,そんなことを思う日々である。

2017/05/29

信長めぐりの旅とその後

先日,織田信長にゆかりのある場所をめぐる旅をした。彼が生まれた名古屋に始まり,彼が城を建てた岐阜,安土をたどって,亡くなったとされる京都まで。これまで,歴史で学んだり本やテレビでしか見聞きしていなかった場所に実際に訪れ,彼が生きた痕跡を見て知って触って,信長と彼の時代に関する新たな知識も学び,心が満たされた旅だった。

2日間でたくさんの場所をまわった。訪れたのは,古渡城跡,万松寺,清州城,清洲城跡,聖徳寺跡,熱田神宮,小牧城,岐阜城,信長居館跡,崇福寺,安土城址,安土城郭資料館,安土考古資料博物館,信長の館,セミナリヨ跡,本能寺跡,本能寺。綿密な下調べと計画を伴った旅ではなかったから,見逃してしまったところや見たりなかったところもあり,また帰ってきてから知った別のゆかりの場所もある。それらも含め,今回訪問した場所のいくつかはいずれ再訪したいと考えている。

旅を振り返ってみると,旅の最中心踊ることや感動することが幾度かあった。それらは主に,彼の遺したモノ,つまり城や館の遺跡やそこから出土した出土品,書状などの史料に触れたときである。500年近く前に存在していたものが今もそこに存在しているということにまず感動し,実際に彼がそれを考えたり,作ったり,使ったりしてたんだな,と思いながら信長に思いを馳せるとどんどん感慨深くなって,その場所から去るのがすごく名残惜しくなっていた。安土城址と岐阜城の山麓にある信長居館跡は本当に離れがたかった。どちらの遺跡も発掘がなされており,当時の様子を知り,感じることができたのが嬉しかった。また,安土城址は私にとっては独特の雰囲気を感じた場所であった。静かで厳かで圧巻される感覚。大手道を登りながら,高く積まれた石垣を触りながら,天主跡に遺っている石をじっと見ながら,そこの雰囲気,空気をたくさん自分の中に取り込んだ。安土城の天主の様子は,史料をもとに復元された模型が安土城郭資料館や信長の館に置いてあり,そこでもまた信長を垣間見ることができた。

信長居館跡 発掘がすすめられている
安土城址 大手道の石段
安土城址 天主跡

さて,信長めぐりの旅の最中からずっと思っていることは,信長のことをもっと知りたい!ということである。彼は有名人で500年近く過去の人。彼に関する本や番組もたくさんある。だから世間にはいろいろな信長のイメージがあふれている。私もそのイメージで信長を好きになったクチだが,今私が知りたいのは,信長は実際どんな人物だったのかである。彼が何を考えていたのか,彼は何をしたかったのか,彼がとったさまざまな行動の後ろにある動機は何なのか,彼はなぜそのような発想ができたのか。そんなことに私は興味がある。それで最近,暇を見つけては本を読んでいる。太田牛一「現代語訳 信長公記」,千田嘉博「信長の城」,藤本正行「信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学」が今手元にあって,「信長の城」は読了,残り2冊は並行して途中まで読んだ。

「信長公記」は信長の家来の一人であった太田牛一が信長の一生を書いたものである。同時代に,彼のそばで生きた人間が書いたものということもあり,史料としての価値は高いとされている。「信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学 」は,タイル通り「信長公記」をベースにして,信長がしてきた戦いが実際どんなものだったのかを再考するという内容である。私がこの本を知ったのは大学の講義であった。幸運にも,タイムリーにも,大学の歴史学入門の講義で織田信長をテーマとして講義する回が数回あることを知り,早速聴講しに行ったときに登場した。桶狭間の戦いに関する通説やそこから派生している世間におけるイメージが,信長公記から読み取れる桶狭間の戦いとはだいぶ異なっていることを学んだ。なんと面白い。

「信長の城」は,信長にまつわる城を通して信長が実際どんな人物だったのか,彼が何をしたかったのかを考えていこうという内容だ。城の遺跡や史料に忠実に向き合い,論を飛躍させることなく,それらから出来る限りの実際像を引き出そうとする著者の姿勢に尊敬を覚えた。私が訪れた清州城,小牧城,岐阜城,安土城は,もちろんこの本でも詳しく紹介されている。本を読みつつ自分が見てきたものを思い出し,あそこはそういう場所だったといえるのかと振り返ったり,見逃してきた箇所もいくつかあって少々残念な気持ちになったり,私が博物館でみた安土城天主の模型(史料をもとに作っている)とは別の天主を,安土城址の主要な場所にあった説明書きに書かれている解釈とは別の解釈を著者が指摘していて驚いたり。いろんな感情を喚び起こされつつ,城,歴史,信長について学ぶことのできた本であった。

旅を契機に信長や歴史に対する興味が増し,知りたい気持ちがいっそう強くなった。今後も信長ゆかりの場所を訪れたり,彼について学んだり,考えたりしていきたいなと思っている。

2017/05/03

大好きだー!「ユーリ!!! on ICE」

「ユーリ!!! on ICE」(http://yurionice.com/)もう大好きだー!ホントにいい!感動。

昨年放映されていた「ユーリ!!! on ICE」,遅ればせながら3週間くらい前に全話見終えた。見ていたときの興奮と好きな気持ちは未だに膨れ上がるばかりで,ここのところ,好きなシーンを見返したり,劇中で使われていた曲をBGMにして家で作業したり,グッズを買ったりしている。そんな中つい数日前に飛び込んできた,完全新作劇場版制作決定の告知!twitterで流れてきた瞬間に思わず叫んでしまった。公開が待ち遠しくて仕方がない。さらに,その告知とタイミングがばっちり合っていたAbemaTVでの全話一挙放送。全話ぶっ通しで再び鑑賞。やっぱり面白い。いろいろ思いがあふれて涙が出てくるシーンもある。好きなアニメはいくつかあるが,私をここまでドキドキさせ,ゆさぶってくるのは「ユーリ!!! on ICE」が初めてだ。

ヴィクトル・ニキフォロフ&ユーリ・プリセツキー
ALTAでパシャリ
好きな気持ちを文章化して伝えるのはすごく難しい。伝えたいこと全部のうちの半分も伝えられていないような気がする。自分の気持ち,伝えたいことを的確に表せるだけの語彙力と表現力が足りないのがもどかしい。それでもやっぱり伝えたいから書き綴っているのだが,「ユーリ!!! on ICE」の何がそんなにいいのかって,自分の気持ちを開放して,落ち込んだりもがいたりしながら,ほしいものを手に入れるために戦って前へ前へと進んでいく勇利にすごく共感するのである。そのような人がいかに美しくかっこいいことか。そして,勇利が語る言葉には私の気持ちを代弁してくれているようなのもたくさんあって,自分ごとのようにとらえずにはいられない。中国GP・FSの回の勇利の気持ちなんて痛いほど分かる。そんな勇利のコーチになるのがフィギュアスケート界のリビングレジェンド,ヴィクトルなのだけど,ヴィクトルの勇利への向き合い方,接し方も私はすごく好きだ。感情表現がストレートで自然体。勇利との時間をいつだって楽しんでいるし,勇利に失望したりあきらめたりもしない。勇利と一緒の場面以外でもヴィクトルの魅力は随所であふれ出ていて,彼の人懐っこさと,自由で少しおとぼけな感じ,それから容姿は私を惹きつけてやまない。そういうわけで,ヴィクトルは私がいちばん好きなキャラクターである。

「ユーリ!!! on ICE」の魅力は他にもたくさんある。先に書いた勇利とヴィクトルのほか,世界各国からたくさんのフィギュアスケーターが登場する。写真右のロシアのユーリはかわいくもアクの強いキャラなのだが,他のキャラクターも個性派ぞろい。大会での選手同士の掛け合いとか,個性ダダ漏れのスケーティングは見ていて全然飽きない。ロシアのギオルギーは,ちょっと残念な感じなのだが,ヴィクトルの次に好きなキャラかもしれない。中国GP・SPのときの化粧と演技は何度見ても爆笑もんだ。とはいえ,あんなにも感情を込めて滑る姿は愛おしくもある。
そんなキャラクターたちを生かしつつ,ストーリーもテンポよく進んでいく。大会の結果はどうなるのか,どんなライバルが現れるのか,勇利はどう変わっていくのか,ヴィクトルと勇利の関係はどうなるのか,など話の展開が最後まで読めず,それこそヴィクトルのモットーである「人を驚かせること」がぴったり当てはまったストーリーだった。
フィギュアスケートのパフォーマンスの美しさも「ユーリ!!! on ICE」の魅力だ。このアニメのオープニングで流れていた勇利とヴィクトルとユーリの滑る姿を初めて見たとき,なんて美しい映像なんだと思ったのを憶えている。身体の動きがなめらかで,流れるように滑り,回る。手の動きや身体の向き,筋肉の動きに至るまでその映像はとてもリアルで,こんなふうにアニメで表現できるなんてすごいと心底思った。そんな映像の美しさに引けを取らず,オリジナルの音楽もまた美しい。先に,自宅での作業中のBGMにしていると書いたが,youTubeを見ると,たくさんの人がカバーしたビデオをアップロードしていて,音楽も人気なのがよく伝わってくる。BGMとしての私のお気に入りは勇利のFS曲「Yuri on ICE」とユーリのSP曲「愛について~Agape~」,ヴィクトルのFS曲「離れずにそばにいて」だ。オープニングとエンディングの歌もまた良い。歌詞はストーリーの内容をすごく反映していて,グダグダとくすぶってる人間に渇を入れてくれるかのようだ。(曲を聞きたい方はこちらから→ https://goo.gl/hJD7Dn YouTubeにアップロードされているカバーのビデオをいくつかピックアップしてリストにしています)

こうやって好きな気持ちをいろいろ書いていると,「好き」がますます増殖していっている気がする。また観たくなってきてしまった。
まだ観たことがない人はぜひ一度ご覧あれ。大好きな人はぜひお声掛けを。語り合いましょーう!

2017/04/26

いろんな文字で名前を書いてみた

先日のドイツ語クラスでのこと。一緒に会話練習をしていた女の子に「ドイツ語の他に何か習いたい言語はある?」と質問したところ,「ロシア語!私キリル文字が好きなの。」と返ってきた。キリル文字,私も何度か目にしたことがある。何が書いてあるのかはさっぱりだが,文字の形はなんかおしゃれだ。改めてキリル文字をググってみたところ,文字の表を発見,さっそく自分の名前を書いてみた。私の名前はこんな感じになる→ ёкаwаюки。なんか新鮮!yo(ё)はドイツ語のウムラウトのついた文字(ä,ü,ö)っぽいと思いきや,ドイツ語にはない文字。ka(ка)とwa(wа)は,ラテン文字と似ているのでなんとなくわかる。yu(ю)はハングル文字に見えなくもないが,ハングル文字一覧には載っていなかったので韓国語にはない文字だ。ki(ки)はラテン文字のNかと思いきや,斜線が逆向きになっている。全体で見てみると,yoとyuは一文字で表せるのに,kaとwaとkiは子音と母音の組合せになっている。

キリル文字での名前表記があまりにも新鮮で面白かったので,他の文字で私の名前はどう表せるのかが気になった。そこで,インターネットで見つけたいろんな文字の表や,かな⇔文字変換プログラムをたよりに,いくつかの文字で自分の名前を書いてみた。日本語発音と一致する音がないものは,その文字における近しい音で記載している。
いろんな文字で書いた名前
ここに挙げたのは,ネットで文字の表やかな⇔文字変換プログラムが見つかったもののうちの一部である。ノート1ページ分調べて書いたところで,いろんな文字の表記ルール解読に疲れてしまった(汗)。とはいえ,実にいろいろな文字が世界にはあることが分かる。世界には一体どれだけの文字があるんだろうか。

文字の表記ルールは,本当にいろいろであった。子音だけ,母音だけの文字があり,ひらがなのように子音と母音の組み合わせの文字もあり,それらの組み合わせをどう表記するかも文字によって違ったりする。長音と短音で文字を分けるものがあり,oとuを区別しない文字もあり,文字の向きを回転させることで異なる母音を表せるものもあり,ととても興味深い。音だけでなく,形も実にユニークである。ほとんどの文字で書くのが初めてだったため,どう書いたらいいか分からない…となっていた。特に,フォントによって微妙に文字の細部が異なるものは完全にお手上げであった。とりあえず見たまま写してみたが,文字というより絵を描いている感覚であった。カーブの具合とか,〇がどこにつくのかとか,文字のどこを太くするのかとか,てんてこまいであった。そうそう,下のほうに古代文字のヒエログラフ(エジプトの象形文字)とウガリット(楔形文字)を書いているが,これは完全に絵と言っても問題ないだろう。とはいえ,しっかりルールはあると思われる。私の名前で書いた文字から推測するに,ヒエログラフではyはナイフ2本が並んでいるようなものであらわし,kはカップのようなもので表すのだろう。ちなみに,kaのところにいる鳥はwaとyuのところにいる鳥とは異なっている(waとyuのところにいる鳥は同じに見えた)。ウガリットでは,yは逆三角形が縦に三つならんだ下に縦棒が突き出ているもの×2で表せると思われる。oとuの区別はないようであった。

いろいろな文字を書いてみたが,個人的には,ティフナグ(モロッコで使われているとのこと),ヴァイ(リベリアで使われているとのこと),クメール(カンボジアで使われている),チェロキー(アメリカ先住民チェロキー族の言葉とのこと)の文字の形が好きだ。ティフナグやクメールはなんか可愛く感じるし,ヴァイやチェロキーはなんかかっこいい。日本語のひらがな・カタカナの形に,外国人はどんな印象を受けるのかな。

文字の世界,とてもとても奥深い。


参考にした主なサイト
世界の文字で遊ぼう(http://www.geocities.jp/p451640/moji/
地球ことば村(http://www.chikyukotobamura.org/home.html